「髪、似合ってるよ」
たったそれだけの言葉なのに、何度も胸の内でエコーする。赤信号で足を止め、ショーウインドウに映る自分を振り返るとまんざら悪くない。こんな時、彼氏でもいればいいのに。
鈴花は家に帰ると真っ先に本棚から小学校の卒業アルバムを出した。めくるページは6年1組。そこには今とは全く別人のカトケンがいた。坊主頭の似合うやんちゃな少年。それが長髪ピアスのイケメンに変身するなんて誰が想像しただろう。片や今と全く同じ髪型の鈴花がいた。前髪は斜め分け、髪の長さは肩につく程度、分け目はしっかり7:3で右から左の耳にかけるスタイルまで同じ。何も変わっていない。鈴花は軽く落胆すると静かにアルバムを閉じた。楽しかった小学校の頃の思い出。でも決して楽しい思い出だけではない。アルバムはパンドラの箱のように、忘れたい記憶さえも鈴花に呼び起こした。
「もう終わったことだから」
「もう十年以上も昔のことだから」
そんな声が鈴花の耳元でささやく。
鈴花の記憶の中で鮮明に覚えているのは、小学校6年生の時のこと、カトケンの上履きがゴミ箱に捨てられていたことがあった。学年で一番足が速くて、勉強もでき、クラスでも人気者のカトケンは誰からも慕われていた。すぐに上履きは見つかったが、それを捨てた犯人は未だ不明のままだ。
日曜の晴れた午後、鈴花は自転車に乗って近所に散歩に出かけた。途中、母校の小学校の前を通ると、正門前のモクレンや枝垂れ梅がきれいに花を咲かせていた。桜のつぼみも今にも開花しようとしている。
鈴花は住宅街をあてどなく走った。小学校の周辺は住宅が密集していて、一度細い道に入ると迷路のような道が続く。春休み中の小学生が縄跳びやバトミントンで遊ぶ裏道を突き当りまで来ると、『サロン・ド・カトー』はあった。
小さな店だが店先にはパンジーの花が咲き並び清潔感を感じさせる。鏡は2台しかなく1台は客が使用していた。年輩の女性の髪をカラーリングしているのはカトケンの母親だろう。すらりと背が高く髪を一つに束ねどこか気品がある。
通り越しにどれくらい見つめていたのだろう、カトケンの母親は鈴花の方に目をやると、ニッコリ笑って軽く会釈した。鈴花は慌ててお辞儀を返した。うれしくて悲しくて、穴があったら入りたい気持ちで鈴花はペダルを蹴った。
「あれ、もう来たの?」
「悪い?」
「いえいえ。どうぞ、いらっしゃいませ」
春は時に残酷だと鈴花は思う。家を出ようとしたら急に雨に見舞われ、新調したばかりのスニーカーはずぶ濡れ、セットした髪はみだれ髪そのもの。傘を閉じ腕時計を見ると、予約の時間より30分も早く店に着いていた。あれから一か月後、カトケンの髪型はもう変わっている。髪は金髪になり長い髪は刈り上げカットになっている。両耳のダイヤのようなピアスがまぶしい。
カトケンの案内で鈴花はシャンプー台の椅子に横たわった。その日は高原さんの姿はなく、客も鈴花だけだった。
「会社は?」
「有休使った」
「わざわざ?」
「どうせ余ってるからね。使わないともったいないし」
「本日は雨の中、ご予約ご指名ありがとうございます」
「ちゃんとお願いね」
「シャンプーのあとに、スカルプトリートメントですね。かしこまりました」
カトケンの指先が鈴花の髪の一本一本をなめらかに洗い流す。温かいシャワーの蒸気に包まれて、このまま何も話さず鈴花は客に徹してもいいと思う。でもパンドラの箱はもう開いてしまったのだ。
「ごめんね」