男が恋に落ちたのはほとんど一瞬だったがしかしそれには理由があって、まずひとつにめぐみという名が唯一付き合った彼女の名と同じであったことと、そして、めぐみの運んできたビールの受け取ろうとした時、男の手と女の手がそっと触れ合ったことと、それに対してめぐみがふっと恥ずかしめるような態度をとったところがちょうどカラオケを歌っていた男が低い声でサビの最後を歌い上げたところと重なったのである。
ああ男はこの偶然と酒の力とも加わり、まんまとまわりまわって巡り合ったこの第二のめぐみに恋に落ちてしまったわけであるが、その恋心の芽生えにはまだ無自覚に、運ばれてきたビールを前にして男はただ無邪気に顔を赤らめるばかりであった。
同僚は家に帰ろうとしないため、しかたなく男は自分の家へと同僚を泊めることにした。
「こんばんはー」
だれもいない部屋に向かって同僚は威勢よくあいさつする。
少し飲みに付き合うつもりがこんなことになってしまって男はつくづく酔っ払いというものを恨んだ。しかし、なにか身体がぽっぽとしていていつもより軽く感じる。それは翌日の朝も同じことで、酒を飲んだ次の日など具合が悪く起きられないものだが、自分と同僚の分の朝ごはんをつくり、窓から見える青い空を覗くと何か散歩にでも行きたいような気持になっていたのであった。
同僚に目をやると、敷いてやった布団からはみ出しそうになりながらいびきをかいて気持ちよそうに眠っている。当分起きそうにない。
男は外着に着替え、「また飲みに行こう」とまるで思ってもないがまんざら嘘でもない言葉をチラシの裏に書き、作ったおにぎりと水と一緒にテーブルの上に置いた。
昨日飲み歩いた際、職業柄同僚の口から土地の話もよく出てきたが、自分は住宅地以外の蒲田を案外知らない。しかも、飲み屋街の方は、知らない店ばかりであった。15 年もいるのだから、たまの休日に散歩をする日があってもよいだろう。そう思い至った男は、大井町駅から蒲田駅へと向かったのである。
JRの蒲田駅は休日だけあって人通りが多い。そういえば、羽田までの直通線ができた影響からか、近頃大きなトランクを持った人や、外国人なども多くなってきた気がする。普段通っている職場は東口にあり、昨日飲みにいった西口の方とは反対側にある。東口には「ぽぷらーど」というなんともふわふわした響きの通りが京急蒲田駅に向かって「あすと」という商店街へと続いていく。西口にはサンライズとでかでかと書かれた看板がそびえたってい てその中にはさまざまな店が連なり、活気があった。そこまでは何となく知っていたのだが、昨日同僚と歩いたのは、たしか「くいだおれ横丁」と呼ばれているところで、ガード沿いに あって昼間でも少し薄暗い。男は昨日の道をたどるようにしてそうした裏路地を進み始め た。
なるほど、くいだおれ横丁というだけあって、お昼時であるこの時間には、空いている店からもおいしそうなにおいが立ち込めてくる。屋台の人達を少し覗くと、休日ということもあってか食べ物の横にアルコールを添えている人たちが少なくない。男は、昨日入った店を確認しながらゆっくりと歩みを進めた。不思議と、奥へ進めば進むほどその足取りも軽くなっていくのを感じる。
そして、とうとう男は昨日入ったあのスナックの前へとやってきていたのであった。男は店の前に立つと、息も上がっていないのに鼓動が激しく波打つのを感じていた。店は締め切られており、看板も引き下げられてしまったため中には入れないが男はそれでもしばらくそのスナックの前から動くことができずにいた。
男がそのスナックに夜、通いだすのはその翌日からの事であった。