蒲田駅の改札前の花屋で、青いバラを前に男が一人突っ立っている。
何をするでもなく、ただ青いバラを見つめるその男は46歳。結婚したことがないのはもちろん、かれこれ20年以上浮いた話の無いような男で、花屋近くの不動産屋に勤務をしており、大井町駅のアパートでひっそりと一人暮らしをしている。そんな男が、花屋で何やら青いバラを前にしては難しい顔をして、うぅん…とうなってみたり、いや、しかし…とためらってみたり、煮え切らない態度で何時間もいるものだから、店員も気が気でない。おまけに、そんな日がここのところ3日も4日も続いているとなると、いよいよ怪しまれ始めてなんの人かしらなんて噂される始末。男は他の花には目もくれず、はたまた定員が自分の噂話をしているなどとはつゆ知らず、青いバラだけをただただ見つめている。
そして、1時間ほどそうして格闘したのち、ふっと深いため息をついたかと思うと、ふらふらとその場を離れ、足の無い幽霊のように改札口へと吸い込まれていくのだった。
男がこんな風になったのは、ほかでもない。恋煩いである。
この男の恋というものがはじまったのは、昔なじみの付き合いで商店街に飲みにいったのがきっかけだった。男は、普段酒などはめったに飲まなかったが、このなじみというのが、同期の同僚であり、また大酒飲みだったのである。
同僚は男と同じ不動産屋のたまプラーザ店の店長をしており、急に男の事を思い出して蒲田にふらっと遊びに来たのだというが、ただ酒が飲みたいがための口実であるということは言うまでもなかった。
「何、お前は蒲田に配属されて 15 年か。俺は 24 年もたまプラにいるだろう。そうするともう町の長老にでもなったような気持ちだよ。」
そんなことを同僚は言いながら、お通しだけを食べ終わる段階で、もう 3 杯もハイボールを飲み干し顔を赤らめている。よほどのどが渇いていたのか、よっぽど飲みたかったのか、
酒飲みの気持ちはさっぱりわからないと男はお湯割りの梅酒をちびちび飲みながら思った。たまプラーザは高度成長期ごろから東急グループが目をつけ発展した、田園都市線の高級 住宅街である。この 20 年間で、かなりの変化があったのだろう。
団地や古い家は取り壊され、住んでいた老人たちは多額の土地代を手に新しくできた高級老人ホームに移り住み、空き地や畑はマンションや大型の子供向け学習塾に姿を変え、駅ビルをマダムたちがベビーカーを押しながら歩いているのだと同僚は言う。
「人も町も変わっちまって、長老は悲しいよ。」
なんていう同僚の左手の薬指には銀色のリングが光り、長老というには少し情けないがたしかに貫禄だけはあるおなかやたるんだ顎を見ていると、お前もずいぶん変わっちまったよと言ってやりたくなる。そして、それに比べてなにも変わってない自分がなんだかちっぽけな存在に思えてならない。
「蒲田の町はどうだ。京急線の方はずいぶん変わったようだし、俺たちだけとりのこされちまったな。まあ俺はちょっとばかし腹が張ってきたが。」