先日も、突然帰ってきたかと思うと、夏美はいきなり結婚すると切り出した。流石に夫も今度は黙っていなかった。丁々発止とやり合ううちに、夏美が「もう成人だから親の許可はいらないわ。一応報告に来ただけよ」などと口走るものだから、夫の怒りは頂点に達した。勝手にしろ。言われなくても、そうするわよ。夏美は、捨て台詞を残して帰っていった。夏美が事前に相談してくれれば、私が上手く話を持って行ってあげたのに、と返す返すも口惜しい思いをしたものだ。
無言のまま、角を二つ折れてアパートに着いた。
私は勧められるまま居間のソファーに腰掛けた。夏美はコーヒーをい淹れてテーブルに置いた。私はクリームと砂糖を一個入れ、ゆっくりかき混ぜる。両手で包むようにして、カップを口に運んだ。夏美は向かいに座り、自分のカップの少し波立つ黒い液面から立ち上る湯気を見つめている。先に沈黙を破ったのは夏美だった。
「それで、その人生の器って、どういう意味だか分かったの?」
やはり気になるらしい。私は一口すすってからカップを置いた。
「ううん、教えてもらう前にお祖母ちゃん亡くなっちゃったから。でもね、自分なりに考えたものはあるわよ」
「聞かせて」
「ずるは、だめよ。あなたもちゃんと生きていれば、そのうちに分かるはずよ」
私は再びカップに手を伸ばした。
「人生の青写真みたいなもの?」
夏美はなおも手がかりを探る。
「さあ、どうかしら」
私はとぼける。
「じゃあ、こんな娘を持ったお父さんは大変ね」
夏美は、鎌を掛けたつもりらしい。夏美は、父親が今頃せっせと人生の設計図を修正している姿を想像しているようだ。だけど、私は、こうなることは織り込みずみ。一途なところは、嫌になるほど私の若い頃に似ている。
――そろそろ本題に入らなくちゃね。
私はカップを置いて居住まいを正した。それを見て夏美もなら倣う。
「夏美、意地を張らないで一旦家に戻ってきなさい。お父さんのことは私に任せて。悪いようにはしないから」
夏美はこくりと頷く。
「あなたは、ちゃんと、自分が生まれ育った家から嫁いで行くの。いいわね。他のことはあなた達に任せるけど、いい、どんな形であれ披露宴だけは絶対やりなさい。ねっ」
夏美は黙って頭を下げた。
「さて私の話はこれでおしまい。近いうちに二人で遊びに来なさい。挨拶とか肩苦しいことは考えなくていいから」
私は立ち上がって、窓から外に目をやった。
やはりこの辺りの家並みは、あの頃の私達を優しく迎え包んでくれた町をほうふつ彷彿させる。夏美が小学校に上がる前に引っ越したから、でっきり覚えていないと、私は思っていた。しかし、それは原風景として、しっかりと夏美の心に刻まれていたようだ。いつしか頬が緩んでいた。
――人生の器って、含みがあって、いい言葉ね。母にしては、なかなか気が利いていたわ。