「あなたもそれなりの覚悟で家を出たのでしょうから、今更連れ戻すつもりはないわ」
母はそこで一旦話を切った。私は詰めていた息をそっと吐いた。
「ただね、結婚式だけは挙げてほしいの。そしてあなたたちの周りの人達に披露してほしいの」
私は、てっきり激しくしっせき叱責されるものと覚悟したのに、思いのほか優しい言いようについ拍子抜けしてしまった。
「えっ。もう入籍も済ませたし、いいわよ。何でそんなに形にばかりこだわるの?」
私はそう言いながら視線を上げた。途端に母の鋭い眼光に射られて、思わずたじろぐ。不断の母は物静かで、夫唱婦随を絵に描いたような人だった。だが今、目の前には私の知らない母がいる。
「あなたは独りで生まれて、独りで大きくなって、独りで何でもできるつもりでいるの。うぬぼれるのも、いい加減になさい」
母はぴしりと言う。私は思わず首をすくめた。母は一息ついて、口調を和らげた。
「あなたの周りには、あなたのことを心配している人がたくさんいるのよ。結婚式もそうだけど、特に披露宴はね、その人達に二人でこれから一緒の人生を歩いて行きますって、宣言することなの。認めてもらうことなの。そうやって自分たちの人生の器を作って、それに後から中身を入れていくの。あなたは馬鹿にするけれど、そうやって一つ一つ形にこだわることは、とても大事なことなのよ」
母は淡々と話す。一言一句が私の身に染みた。小さい頃、私が駄々をこ捏ねると、よくこんな風にたしなめられたことを思い出す。やはり母にはかな適わない。改めて思い知った。
「人生の器って、何?」
私は、その疑問を口にするのがやっとだった。
「あなたがちゃんと生きていれば、そのうち分かるわよ。いい、絶対にそうなさい。ねっ」
『ねっ』と同時に、母の目がふっと優しくなる。思わず鼻の奥がつんとなった。
「私の用はそれだけ」
さて。母は、ぽんと腿(もも)をたたいて立ち上がると、来た時と同じように唐突に帰っていく。何も言えず座ったまま、母が消えたドアを呆然と見つめる私。急に部屋が広くなった気がした。その時になって、お茶さえ出さなかったことに気づいた。手のひらに食い込んだ爪のあと痕が痛む。母が座っていた場所。しっこう膝行して手のひらで触れると、畳にほんのりと温もりが残っている。お母さん、ごめんね。私はその場に崩れた。
私たちは、母の言いつけ通り、その年の冬に細(ささ)やかながら結婚披露のパーティを開いた。
「お祖母ちゃんに、アパートの住所を教えたの、お父さんだったの。冷静に考えたら、それしかないわよね。でも、その時はそんなことにも気づかなかったの。それほど思い詰めていたのね。その頃お父さんも、家業を継ぐ、継がないで親とも揉めていてね。ほとんど実家と絶縁状態だったの。だから私には同じ思いをさせたくなかったのね」
私が促すと、夏美はうつむ俯いたまま、ゆっくり歩き出した。
夏美はやることがちょくせつ直截的で要領が悪い。そんなところは夫そっくりだ。二年前、家を出た時は、月曜日にアパートを借りたと告げて、その週末には引っ越していった。夫は何も言わなかったが、かなり不満だったようだ。