「春はね、そっちの通りの桜もきれいなんだよ」
おじさんがベランダの柵から身を乗り出し、歩道脇を指さす。「知っています」と言えなかった。「私、ここに住んでいたんです」とも。小さなころ、おそらく幼稚園の入園か卒園のときだろう。満開の桜をバックにして撮った写真がある。それがこの歩道の桜だろう。写真を撮ったのが父か母かは思い出せない。
おじさんはいつからここに住んでいるのか、もしかしたら30年近く前にここに住んでいた私たちのことを覚えているか、自分たちがここに暮らした痕跡を知りたくて来たはずなのに、たずねることができなかった。
「さあ、そんな家族知らないね」と言われたら、ここでの時間が消えてなくなる気がした。
「さてと、もっと雨が降ってくる前に買い物に行かなくちゃ」
おじさんがそう言って、大きく伸びをする。とっさに、口をついて出た。
「あの、写真を撮らせてもらえませんか」
「写真? えっ? オレの?」
「はい。なにもポーズをとらなくていいんです。ただそこにいてくれたらいいので」
「えー、ちょっと待ってよ。こんなカッコだし、オレの写真なんて撮ってどうすんのさ」
「すごくいい雰囲気なんで。この草むら…っていったらなんですけど、自然に咲いている名前も知らない花と、おじさんの自然体な感じを撮らせてほしいんです。あっ、私、これでも一応カメラマンなんです、実は」
「へえ、カメラマンなの。若い女の子で、すごいねえ」
若い女の子、というのは嫌味でもなんでもなく、おじさんの素直な気持ちから発した言葉だとわかるから、ありがたく受けておくことにした。
「ホントにいいの? こんなカッコで」
「はい。そのままで」
おじさんは構えるでもなく、タバコの箱とライターを握ったままベランダに立っていてくれた。タバコを吸いにベランダに出て、たまたまそこにいる人とちょっと世間話をする、1日のなかのなんでもない時間。それでも、おじさんの暮らしのなかの尊い時間だ。父が生きていたら、ここに住んでいたら、同じような時間が流れるだろうか。突然の怪しい訪問者の女性にも気軽に声をかけて、おしゃべりを楽しむかもしれない。
そういえば、とふいに思う。私は自分の家族の写真を撮ったことがない。ファインダー越しにおじさんの姿をとらえながら、止まってしまった父の時間を探した。
「ありがとうございました」
おじさんは笑顔のまま手を振り、部屋に入っていった。結局、タバコは吸わないままだった。勝手に敷地に入り込んだ私を怪しまずにいてくれて、花を教えてくれて、写真を撮らせてくれて、父を思い出させてくれてありがとう。口にできない想いがあふれる。何度か電車が通ったはずなのに、昔あんなに怖いと感じたほどの音に、気づくことがなかった。
駅までの帰り道、私の前を小さな女の子を真ん中にして手をつないだ家族づれが歩いている。私がここに住んでいたのは小学校に上がる前で、一人きりでこの町を歩くことはなかっただろう。道を覚える必要がなかったから、道順の感覚がない。
京浜東北線が横を通り過ぎてゆくそのとき。あるシーンがよみがえる。電車が通る音にかき消され、父との会話が遮られたとき。一生懸命何か話し続ける小さな私に、(聞こえないよ!)という父のジェスチャー。ここを2人で歩いたことがあるのだ。何を話していたかはわからないけれど、そんな時間を思い出しただけでもうれしかった。