駅のすぐ横からのびる「西口商店街」とあるアーケード街を歩く。ドラッグストアやコーヒーショップに混じって、昔から営業していそうな電気屋、定食屋、呉服屋や写真館がある。私の記憶のなかにそれらはなく、あるのは10円ガムのくじで当たりがよく出る駄菓子屋さん。おじいさんが一人でやっていた店だ。私も何度か当たりくじを交換に来たことがあったあの店は、この町ではなかっただろうか。見つけることはできなかった。
はっきりと覚えている電車の音や花の色、あいまいな景色やだれかの言葉も含めて、この町で記憶を積み直してゆく。どれももう戻れない時間で、その記憶をいまはもういない人と分かち合うこともできない。父との記憶の続きを作ることができないのだと思いかけて、ふと思い直す。この町で、私はたしかに父との時間に触れた。そんな今日というこの日のことを、私は忘れないだろう。小雨に煙る、過去と現在と未来が混在するような1日を。かつてあった時間の手触りが、空っぽに思えた自分のなかに戻ってくるのを感じた。記憶は重心となり、いまの自分を立て直してゆく。重心を取り戻し、私はまた歩き出せる。
駅ビルのフロア案内で見た、“屋上かまたえん”という文字が目にとまった。何かで見聞きしたことがある、屋上に観覧車があるという、あの遊園地のことか。
エレベーターで屋上まで上がったのは、私だけだった。夏の間はビアガーデンにもなるという場所は静まり、土曜日といえども小雨模様のなか、遊園地で遊ぶ家族連れはいない。並んだテーブルは小雨でしっとりとぬれ、キッチンカーも営業していないようだ。雰囲気を盛り上げるための陽気な音楽が、遠慮がちなボリュームで流れる。そのなかで、観覧車は動いていた。傘をさして順番を待っている親子もいる。スタッフが何か声をかけ、降りてきたゴンドラに次の客を案内する。観覧車を見てもなにも思い出さないということは、子どものころ、これに乗ったことがないのだろう。父も母も遊園地を好むタイプではないから、ここに来たことすらないのかもしれない。
観覧車の順番を待つ客が、残りひとりとなった。年配の男の人だった。一瞬、さっきの団地のおじさんかと思って鼓動が鳴る。ランニングシャツ姿ではなかったが、淡いブルーのポロシャツによれたズボン、リュックサックを背負って一人、ゴンドラを待っていた。降りてきた緑色のゴンドラの扉をスタッフが開け、おじさんが乗り込んだ。ゆっくり、ゆっくりと空へのぼっていく。私はカメラを取り出し、小雨のなか観覧車に近づいた。それほど高くはない。それでも、地上から体を浮かせた状態で15分ほどいるのはどんな感覚だろう、途中で止まってしまったらどうするのだろうと想像し、ゾクッとした。私は昔から、遊園地の乗り物が得意ではない。ジェットコースターなどもってのほかだ。緑のゴンドラが一番てっぺんに上がる。おじさんはいま、何を見ているだろう。何を思っているだろう。シャッターを押す。写真に写るはずのない、形のない世界をとらえようとしてみる。
ゴンドラを降りてきたおじさんは、晴れ晴れとした顔で観覧車をあとにする。厚い雲をバックにゆっくりゆっくり、誰も乗せていない観覧車が回り続ける。1周15分、おじさんの世界は何か変わっただろうか。音もなく降る今日のやわらかな雨が私の心に刻まれたように、気づかないうちにあの観覧車はだれかの世界を変えてしまうんじゃないか。そんな強さ、あるいはやさしさで、観覧車はまわる。今日までも、そして明日からも。
引っ越し先の住所を伝えるのを口実に、母に電話をかけた。
「結局、また実家には戻らないのね」と、母があきらめたように言う。実家とはいま母が住む家という意味だろうが、転勤の多かった家庭で育ち、実家と言われてもピンとこない。
「今度住むところ、蒲田に近いんだけど、前に蒲田の団地に住んでたことあるよね」
「蒲田、うん。なつかしいわね」