「どうして、今みたいになったんですか?」僕は期待された合いの手をいれる。そして、おばさんが話を続けた。
「その頃は今みたいにお客が列を作ることなんか考えられなかった。コロッケだって、ひどいときは半分売れ残っちまったこともある。そんなことで、私も気持ちが追い詰められてさ、多分そのせいで熱を出して寝込んじまったんだよ。」話の途中でおじさんは、立ち上がってガスコンロに向かい、やかんを火にかけた。
「それで、この人がコロッケ始めたんだよ。」
台所で茶碗を並べながらおじさんは言った。「ちょっと、やってみたかったんだ。コロッケ揚げるの、やってみたいなって思ってて。」
「それがうまくいっちゃったんだよ。怪我の功名ってのかね。元々この人凝り性で、材料から何から凝りだしたらやめられなくなって、今のコロッケができたってわけ。そっから少しづつ客が増え出して、私も揚げ物の音聞いてるより人の話聞いてる方が好きだったしね。」
「ボケとツッコミを交換したんですね。」
おじさんはお茶を運びながら、おばさんと顔を見合わせた。それから二人ともふふんと笑った。
おばさんは言った。「お兄さんうまいこと言うね。そういうことだったんだね私たち、きっと。はい、お茶どうぞ。」
思わず打ち解けた雰囲気になったので、僕は部室で友だちとの間で話題になった疑問をおばさんに聞いてみた。
「あの、精肉店って、やってる人の苗字が店の名前になるのが多いと思うんですけど、ここの店は“平和精肉店”じゃないですか。平和って変わった名前ですよね。」
おばさんは、一口お茶をすすって言った。「ラブ アンド ピースだよ。」
「えっ?」
「ラブ アンド ピース。知らない?ジョン・レノン。この人、こんな演歌みたいな顔してるけど、ジョン・レノンかぶれでね、店開く時、この人ラブ アンド ピースを店の名前にしようとしたんだよ。」
不意打ちのような答えに、はあ。としか言えなかった。
「私はね、まっとうに石井精肉店にしようと思ったんだ。ところがこの人なかなか頑固でね。まあ頑固だから、コロッケも美味しくできるんだと思うんだけど、ラブアンドピース精肉店じゃ、いくら何でも怪しくて客が寄り付かないと思ってさ。それで、いろいろ考えた挙句、ピースを日本語でというところで、なんとかこの人OKしてくれたんだ。」
“愛精肉店”もあったかも知れないと思うと、おかしくなった。
「そう言えば、うちの息子も中学に上がったくらいだったかなあ。この人に同じこと聞いてたよ。」
「息子さんいるんですね。」僕が座ってるのは息子さんの椅子というわけだ。
座ってお茶をすすりながらふんふんと話を聞いていたおじさんが、何かを思ったようで立ち上がった。
「お兄ちゃん。ちょっと一緒においで。」
後をついて行くとおじさんは部屋から出て玄関の明かりをつけた。玄関から二階に上がる階段に促しているようだった。おばさんは行っといでと目配せしている。
おじさんは振り返りもせずどんどん階段を上がっていく。慌てて後に続いたが、狭いスペースに設置された階段は一段一段の奥行きが狭くて、気をつけないと足を踏み外しそうだった。
二階はドアが二つあって、おじさんは左側のドアを開けて中に入った。
「こっちだよ。」
部屋に入ると、おじさんは窓に掛かったカーテンを開けた。夕暮れの日光が横から差し込んでくる。さっきの激しい雨はもう止んだようだ。その部屋は精肉店の店舗の真上になっていて、通りに面した壁面にサッシ窓が4面、光を部屋に入れている。入り口のドアに近い部屋の角には、窓に向かって勉強机が置かれていた。