そんなある日、翼の父・創一が嬉しそうに仕事から帰って来た。何事かと聞く由美に、創一は嬉しそうに、商店街で聞いた話を語り出したのだ。
登園拒否が始まって5日間が経った日の朝、祖母の家へ行く前に由美は翼にあることをお願いした。
「今日はね、おばあちゃんにお土産を買っていこうと思うの。でもママは今からちょっとお仕事があって買いに行けないから、翼に行って来てもらいたんだ」
「おつかい?」
「そう。できる?」
由美の問いかけに、翼は間髪入れずに大きく頷いた。1人で外に出るのは初めてだった。1人でおつかいするという現実に、不安よりもワクワクとドキドキで心が舞い上がった。
「商店街にあるケーキ屋さん分かるでしょ? いつも帰りにアメをくれるお姉さんがいるところ。そこで、おばあちゃんのお家に持っていくケーキを買って来て欲しいんだ」
そこのケーキ屋を翼はよく知っていた。由美の買い物について行くと必ず通るお店で、たまにお店の前で女性がチラシを配っていたりするのだ。由美が聞いた話だと、その女性は高校生で、あまり学校には行かず両親のお店を手伝っているのだという。その人はいつも、翼が店の前を通ると声をかけてくれてアメをくれる。とても笑顔が可愛くて、優しい翼の大好きな人だ。
「ケーキは翼の好きなやつ選んできていいからね。それと……」
由美は翼の部屋にある、レッドが悪者との戦いで使っている魔法の剣のおもちゃを持ってきて翼に手渡した。これは翼がお正月のお年玉を貯めて買ってもらった宝物だ。
「もし悪者が現れたら、これでレッドみたいに頑張って倒すんだよ」
「悪者出るの?」
「分かんないけど。もし出たら。翼ならきっと倒せるから」
「分かった」
由美の言葉に翼は固く口を結んで頷いた。
「じゃあ準備しよっか」
由美はそう言って、翼がいつも使っているリュックに、財布と筆談用具を入れた。由美と創一は、翼が手話を覚えるのと同時に字も練習させた。そのおかげで今の翼は同い年の子よりも字が書けるし、読むことだってできる。
「じゃあ、気を付けていってらっしゃい。頑張ってね」
翼は由美が開けた玄関の扉からゆっくりと外に出た。心臓の音が速くなる。少し歩いて振り返ると、とても楽しそうに笑った由美が翼に手を振っていた。翼は剣を持っていることなんて気にもせず、両手を大きく広げ手を振り返した。
家から商店街までは翼の足で10分もかからない。いつもは保育園の帰りに由美と夕飯を買って帰るために寄る商店街だが、今日は家から1人。周りを歩く人、走る自転車、信号もよく見て歩く。ほぼ毎日通る道だから迷うこともなく、翼は商店街の入口に着いた。いつもならもっと賑っているはずの商店街が今日は閑散としている。休みの店が多いのだろうか。翼が歩みを進めると、後ろから誰かに肩を叩かれた。
「翼くん」
振り向くと、そこにいたのは商店街に入ってすぐ近くにあるパン屋さんのおじさん。翼はいつものように頭を下げて挨拶をする。おじさんはくしゃっとした笑顔を翼に見せると、漫画などでよく見る雲型の吹き出しを型取ったボードを、自分の顔の横に掲げた。翼はおじさんが持ったボードに目をやる。ボードには「つばさくん、こんにちは」という文字。翼がおじさんに目を戻すと、おじさんはボードに書かれた台詞を読む様に、口を大きく動かした。いつもは何を話しているか分からないおじさんの言葉が、はっきりと目に見えて分かることに翼は嬉しさを覚えた。