まずは顔から書こうと、翼が肌色のクレヨンを手に取る。その様子を見て、春香は翼の肩を優しく叩いた。
「先生、ちょっと離れるね。困ったことあったら、いつもみたいに大きく手を振ってね」
口を動かしながら手話でそう伝えた春香に、翼は頷いて見せた。
春香がいなくなると、隣に座っていた尚樹が翼に向かってささやく。
「お前さ、1人じゃなんにもできないよな」
翼は何を言っているのか分からず首を傾げる。その仕草を見て、尚樹は用紙に文字を書き始めた。
【なにかしゃべってみ】
翼は。困ったように首を横に振る。尚樹はさらに文字を書くのを続けた。
【それじゃヒーローになんてなれないよ】
翼は書かれた文字をじっと見つめた。
あぁそうか。しゃべれないとヒーローになんてなれないのか。いつも僕がテレビで見ているヒーローは、必ず画面に字が出ているけど、ヒーローだってみんなと同じように口で話しているんだ。
「おまたせ」
春香が戻って来ると同時に、尚樹は文字を書いた用紙をぐちゃぐちゃにして翼に笑って見せた。翼の脳裏には、尚樹が書いた文字がはっきりと残っている。
「僕はヒーローになれないの?」
手話でそう話してくる翼に、母の由美は首を傾げた。 翼と由美の会話手段は手話だ。由美は分かりやすく言葉を声に出しながら翼に聞く。
「どうして?」
「しゃべれないとなれないんだって。尚樹くんが言ってた」
翼がこんなことを言ってくるのは初めてだった。由美の心に鈍い痛みが広がる。尚樹に悪気があったわけではないのだろう。子どもは純粋で正直。だからこそ残酷な言葉を平気で言えてしまうのだ、と由美は理解していた。
「そんなことない。なれるよ。だって翼はこうしてママとお話しできてるでしょ?」
「でも保育園じゃ春香先生としかお話しできないもん。みんなみたいにできない。外じゃ、ぜんぜんお話しできないの」
そう言って俯く翼の頭を、由美はゆっくりと撫でた。他の子と同じことができないもどかしさを理解しながら。
翼は自分がヒーローになれないと知った日以来、登園を拒む様になった。元気が出なくて保育園に行きたくないという言葉を、由美は受け入れるしかなかった。
共働きの両親が帰って来るまでの間、翼は祖母の家に預けられることになった。翼が登園を拒否し出したその日から、由美は仕事中も、翼を寝かしつけるときも1日中ずっと、どうしたら翼をヒーローにできるのかと考えていた。どうしても保育園に行かせたいわけじゃない。けれど、耳が聞こえないことを理由に、社会に出て行けなくなってしまうことは避けたかった。