「カウベル、鳴らしてもいい?って言ったらしいんだけど。それをずっと大事にしててさ、開ちゃんは。だからカウベル鳴る度に、奥さんがやってくるんじゃないかって。あたしのコーヒーののの字といっしょでさ、みんなささやかななにかを信じて生きてるものなのよね。おもしろいね。でもそういう開ちゃんのこと、みんな好きなのよ。もしかしたらみんなもどっかでみどりちゃんがやってくるって信じて生きてるのかも、なぁんてね」
わたしはずっと気になっていた<キャフェ ちぎれ雲>の壁にかかっている絵を開さんがいつもていねいにファイバークロスで拭いてゆく姿を思い出してあの絵って? って指さした。
「そうそう。駅前のカルチャーセンターに通っててね、そこでの卒業制作らしいの」
連なる山々の向こうに星らしきものがひとつ輝いていた。
いつだったか、絵を拭きながら開さんが言っていた。
「小夏ちゃん、おじさん貧乏性だからさ手とか指を動かしてないと、こうなんていうか闇になつきやすくなっておっかないからね、ここらへんが」って胸のあたりを指さしながら話してくれた。
たぶん開さんは奥さんのみどりさんを想っておかしくなりそうになる時間があったのかもしれない。そういう意味ではわたしと開さんはじゅうぶん、同じ輪の中の人間だと思う。その日からわたしにとって百合子さんは、ほんとうにお腹の子供のお祖母さんのような存在になった。それだけじゃなく、開さんも源さんも歩さんもコバッチも、みんな優しかった。八百屋さんの芳信さんも余ったからっていってトマトや山芋を置いて行ってくれたりした。
<ワンダーナイト、7・7>の夜。みんなつれだってデパートの屋上を目指した。わたしのお腹はすこしめだってきて、ふわふわのワンピースの中にボールが入っているみたいな形になっていた。
みんな足元気を付けてねって声をかけてくれた。
<だいすきな人に言えなかった言葉、いまもありますか?>そんなフレーズがこのイベントのちらしに書かれていた。観覧車の前には列が連なっていて、みんなこの街の人たちが並んでた。
鰻屋<万平>さんのご主人が、「待つってのはいいね。なんかほらずっとむこうに未来があるみたいでさ」って言った時、開さんがそうだ「未来ちゃんってのはどうかな、小夏ちゃん」ってなにか大発見したみたいに肩をぽんとたたいた。これから生まれてくる子供の名前のことみたいだった。
「カタカナでもさ漢字でもなんかよくねぇか」って興奮しながらみんなに同意を求めると、そこにいた源さんが「たまにね、開ちゃんはヒット飛ばすのよ」っていって列に並んだみんながどっと笑った。笑ったと同時に開さんの背中をどんと押した青年がいた。びっくりして開さんがふりかえると、「オヤジ、久しぶり生きてた?」って声をかけられていた。息子の銀太さんだった。