「ありがとうございます。バイトにも慣れてきて」って話しだしたわたしを百合子さんは制して、「ちがうちがう。つらくない?」ってわたしのお腹あたりをみて、「あなたのそっちのほうが気になってね、来てみたの」
わたしは思わず、黙ってうつむいてしまって。いつから百合子さんは知っていたんだろうって思った。
「あの日、屋上ではじめて会った日に、わかったのよ。わたしも一応大昔に母だったことがあるのよこれでもね。小夏ちゃんはお母さんになるんだなって。ぴんときたの。でも、なにか深い哀しみを堪えたままお母さんになるのかもって。ごめんね、ほんとおばあさんは差し出がましいよね」
今まで秘密をお腹に抱えたままこの街にやってきて誰にも相談できなかったことが百合子さんの一言で、一気になにかがゆるんでいくのがわかった。
わたしは百合子さんには爽が、最果てで死んでしまったこと魚が好きだったこと、子供ができたことを知った日が爽の命日になってしまったことをぜんぶ話した。ふたりがみなしご同士だったこともぜんぶ。
「でも、顔をみて安心したわ。あの観覧車の日よりはずっといい顔してるわよ。よかったわね、この街で。みんなほんとにおせっかいでさ、寂しがりやでさ、バカばっか言ってるけど愛すべき人たちでしょ。それにさ、あなた小夏ちゃんなのよ蒲田に住むしかないようなそんな運命だったのよ。これで彼がギンちゃんだったらすごいわらえるわ」
小夏っていう名前がどうしてこの街とぴったりなのかは、後で知った。
「うんめいですか?」ってこたえた後、部屋のなかに凪が訪れた。
コーヒーペーパーの中に挽かれた豆をさらさらとあずけて、お湯を注ぐ。
その時、しゅんしゅんとケトルの口からこぼれるのはまるで言葉みたいで、なにかのイントロのようにも聞こえた。ほのかにチョコレートの香りがする。
「あほらしいんだけどさ、このペーパーの上にひらがなののの字を書くようにすると、おいしいコーヒーが淹れられるって、開ちゃんに聞いたのよ。そういうことだけは、守りたくなるのよね、あたし」
おいしそうな匂いですねって呟くと、身体に悪いからコーヒーはダメよって言って、一口だけとたしなめられた。
わたしが不安そうな顔をしていたのか、深いため息を吐くと百合子さんは、
「大丈夫、大丈夫。開ちゃんにはわたしから時期をみていうわ。がんばって産みなさいよ。なにも考えずに。もうみんな大騒ぎだわよ。きっと。みんなここらへんの男衆は、はやくおじいちゃんになりたがってたから」
百合子さんのカップからはコーヒーの湯気が、わたしのマグカップからは、アッサムティのゆげが上がってた。
「開ちゃんさ、そこのカウベルが鳴る時、すっごい怖い顔してみるクセ治ってる?」って百合子さんが店長の開さんの話をはじめた。
「しますします。わたしもはじめてここにお邪魔したとき、あの観覧車の日。ドアを開けておそくなりましてすみませんって言った途端、びっくりしました。絶対怖い人かと思って、バイト先失敗したって瞬間思いましたよ」
おいしそうにブラジルショコラのコーヒーを一口飲んだあと「開ちゃんね、奥さんのことが好きだったのよ。そこのデパ地下で働いていて、ほんとうにいい人だったの。ちょっと開ちゃんにはもったいないぐらいね。奥さんが最後に言った言葉を今でも信じてるのよ」
「言葉って?」