雨の日になると訪れるのは荒木源三郎さんだった。名前はこわそうだったけれど、ほんとうにやさしい男の人だった。職業は大工さん。
「小夏ちゃん、おじさん雨の降る前の匂いに敏感なんだよね」って話かけてくれた時、靴屋さん<IPPO>の歩さんが源ちゃんまたその話かよ、新しいバイトの人が入ってくるたびに、おじさんはねって話すんだもんな。それにいい年こいてさ、敏感って感じじゃないでしょう。ねぇ、歳とるとやだね、こんなふうにずうずうしくなっちゃってさ。なぁんてね。そういうさびしい顔すんなよ源ちゃん。でもね源さんの天気予報は結構あたるのよ、ちょっとこわいぐらいだよ」
ねぇって歩さんが、肩をすくめておどけた。
「でね、小夏ちゃん、俺さ息子がいるんだけど。荒木翔っていうの。カッコつけた名前でしょ。ぜんぜん荒木翔って感じじゃないけど。いつでもいいから友達になってよねあいつはほんと社交下手でさ」
歩さんが横から口をはさむ。
「っていうか。いねぇだろう。まだ、帰ってきてないだろう翔ちゃん?」
「どちらかに行かれたんですか?」
わたしもつられて口をはさむ。
「どこだっけ、世界遺産の街、アーメンの国だよ。ほんとにどいつもこいつもここの野郎どもはしょうがないね」
ひとしきり息子さんの話をした後、大工の源さんはさてと帰るかと、腰をあげた。
「まだ、早いんじゃんないの? 雨ン日はずっと暇だろう?」
「失礼しちゃうな。いろいろやることあるしさ。それにあいつがいるからさ」
「あいつって、源さんほんとうにどうかしてるよ」
「なにが?」
「わかったよ、帰んな。帰りな」
後で歩さんが教えてくれた。源さんが帰りを急いでいたのは、観葉植物への水やりが残っていたためだったらしい。
「源ちゃんのセガレが海外へ行って逢えなくなってからパキラっていう木を育ててるのよ。ほら百合子さんとこのなんだけどね。名前もあるんだよいっちょ前に、でさ面白いっていうかバカっていうかそういう話があるんだけど。警察の人がさ火事とか地震とかの災害に備えて家族は何人ですかとか訊ねるのあるだろう。あの時さ。うちには翔はいません。いるのは荒木パキラですって、真顔で警察さんに言ったらしいよ。ほんとうにみんなさどうかしてるよ、っていう話」
歩さんは帰り際、「小夏ちゃん、今度の七夕なんとかナイトとかっていうのがあの屋上であるのよ。観覧車のある。あれに来たらもっと変な奴紹介してやるから、じゃあな。ちゃんと食って元気に働きな」
バイトが終わると、店長の開さんから赤いキーホルダーを預かって戸締りする。店の横のむきだしの階段で2階まであがる。そこがわたしの部屋だった。
いつもだれかがにぎやかに話をしてるので、ひとりになると途端にひとりになったみたいに、静かな闇が心もとなくなる。そういうとき、必ず発してしまう。
「爽、どうしよう。大丈夫だと思う? これから。もうなんでこういうときに死ぬかな。間が悪すぎるよ。ほんとに、もう」
ある日百合子さんがやってきた。
「開ちゃんは? いないんだ。じゃ、ちょっとお邪魔させてもらって」
百合子さんは勝手を知ってるみたいだった。白いぽってりとして陶器のドリッパーを棚の上からだしてくる。「これあたし用なの」
「あ、大丈夫? 最近どう?」カップを出したり準備しながら百合子さんが聞いてくる。