富士山。あれが富士山。「みつけると必ず俺ら、富士山って声出すよな。みんな見て見ぬふりはあかんって。富士山には富士山やって声かけさせてもらわんと」
いつだったか新幹線で車窓から富士山を見つけた時、まわりの乗客が誰も反応していなかったのに反応して、爽は持論を展開し始めたことがあった。その日ひとりで観覧車のワゴンの中で富士山をみている時、よくわからないけれどひとりじゃなくてふたりでみている気がしていたのだ。爽とふたりでみている。
そんな気がしてすこし胸が熱くなった。
百合子さんにさよならするとき、彼女は「また来なさいね。あなた知ってる? 今度の七夕にね、なんだっけそうそうワンダーナイト7・7っていう観覧車にのろうみたいなイベントがあるらしいの。その時また来なさいよ。町中大騒ぎするの大好きだから。じゃあね!あ、あなたお名前は?」
「あ、申し遅れました。柊小夏っていいます」
「ひいらぎこなつさん。こなつさんが蒲田にいるのね、ふふふ」ってツボにはまったみたいに百合子さんは笑っていた。わたしはその意味があまりわからないまま、つられて笑った。
まだなにも始まっていないのに、もうすでにどこかで何かが始まっていたようなはじまりだった。デパートを後にして近くの人に訊ねながらなんとか<キャフェ ちぎれ雲>にたどりついた。
すごく大きな音でカウベルが鳴った。
「遅くなりましてすみません。ヒイラギです」って声を掛けると店長さんらしきその人は鼻眼鏡をしながら眼光鋭くわたしを見た。見たというより見抜いて、わたしを確認すると一気に顔がほころんだ。
「さっきの電話の。ヒイラギさんね。観覧車乗った?」って嬉しそうに聞いてくる。こわいひとではなかった。
「乗ったんですけど、ここは見えませんでした」
開さんというその店長は鼻眼鏡を外すと、「あなた、おもしろい人だね」って、からかわれているような口調になった。
「そりゃ、こんなにちいさな喫茶店、みえませんよ。みえないみえない。でも見たでしょ、見えたでしょ、富士山」
急に背後から膝カックンされたみたいに拍子抜けしていたら、「見てほしかったのよ。あの中からみえる富士山をね。そうかみえましたか。よかったよかった」
話のついでに屋上のグリーンショップのオーナーの百合子さんっていうご婦人の話をしてみた。
「はいはい。百合子さんでしょ。ほんとうにお世話になってさ。俺のバカ息子。銀太っていうんだけどね。あそこでバイトさせてもらってね。今はプラントなんだっけ、プラント、そうそう、プラントハンターとかってよくわからないものになっちゃって、海の向こうに行ったきりだよ。百合子さんの影響力おそるべしなんだよ」
「ところでエプロン持ってきてくれた?」 って言っている途中でカウベルが鳴った。
店長をなにげなく見ると、またおなじように眼光鋭くなっていた。