バイト先<キャフェ ちぎれ雲>の2階の6畳一間がわたしの新しい住処だ。台所の電気だけつけてそこに立つ。魚やイカの内臓とかを手探りでちぎれないように微妙な力加減でひっぱりだす。この練習を爽にさせられたとき、爽は腕を組んだままじっとわたしの手元を見てた。大胆にそっとやでって難しいミッションを放ったままじっと見ていた。いまはひとりでそれをやってみる。爽が魚をあしらってたときの感覚がふいに甦ってきて、海のどこかで爽の手を探りあてたみたいな感じがした。
イカ大根をお皿によそってテーブルに置いた。
爽、お誕生日おめでとう。死んでから何日とかは数えないからね。
ありがとう。とかって聞こえるはずないなって思ってたら、偶然に窓の外で夜の鳥がおもしろい音階で鳴いた。小さい頃誰かに読んでもらっていた絵本の中のナイチンゲールみたいな鳴き声だった。
<キャフェ ちぎれ雲>は、凪街から歩いて10分程のところにある。はじめてここを訪れようとして電話をかけた時、店長が言ったことばは今でも覚えてる。
「迷ったの?」
「はい」
「じゃあね。駅前のフェスタプラザのさ、観覧車に乗ってごらんよ、見えるから」
「はい?」
店長にからかわれているのかと思ったけれど、電話を切り際にも見えるんだよってうれしそうに言う。それが迷った時の唯一の脱出法らしく、わたしはわざわざデパートまで足を延ばした。屋上に着いた。観葉植物を置いてある小さ
なグリーンショップがあって、そこのオーナーさんがすてきな歳の重ね方をしているご婦人だった。目が合ったので軽く会釈した。会釈したのを合図に彼女が近づいてくるとちいさなラベンダーの束を差し出して「これ、どうぞいい匂いでしょ。触れてるだけで幸せな気持ちになるわよ」って教えてくれた。
「ここらへんの方じゃない?」
わたしは流れ流れてここに辿り着いたこと。駅が気に入ったこと。<キャフェちぎれ雲>に行きたいのだけれど店長さんにあれに乗りなさいと教えられたことなどをかいつまんで説明してみた。
「知ってる知ってる。知りすぎてるぐらいよ。開ちゃんでしょ。いい人よ、昔っからここの常連さんだし。よくあっちにも遊びに行くの。道に迷ったって言ったらここの観覧車に乗れって? ほんとに開ちゃんらしいじゃない、あなた乗ってみるといいわよ。なかなかいいんだから」
ジェリービーンズみたいな色をした観覧車。チューリップみたいな形。その日乗ったのは青色のワゴンだった。こじんまりとしていて、なにかに包まれているような安堵感がある。
そのご婦人は百合子さんといった。彼女が、地上から手を振ってくれていた。
わたしもそれにこたえて手を振った時、さっきくれたラベンダーの静かで涼しい匂いがワゴンいっぱいにひろがった。店長の言葉どおり窓を見た。見たけれどそこからは<キャフェ ちぎれ雲>はみえなかった。見えたのは電車の線路。さっきまでわたしがいた場所だ。池上線? 多摩川線? よくわからなかったけれどとにかく線路がみえた。ただ風景の方からみられている気がして、視線をもっと遠くに放つとただふとぼんやりと、むこうの方にうっすらと富士山がみえたのだ。