夕食の買い物をしなくてはと気づいたときには、まだ空に明るさは残っていたが日は沈んでいた。
片付け作業から開放されたものの蒲田ツアーはあきらめ、なじみの八百屋と肉屋で夕飯の材料をさくっと買い揃えて千秋が家に向かっていると、肩を男の手がつかんだ。
振り向くと、そこに卓哉が立って作り笑いを浮かべていた。
千秋は、卓哉を見るやいなや、一言も発せずその手を振り払って踵を返して歩き出した。なぜこの人がここにいるの? 一体何しに来たの。速く歩けば今見た記憶が吹き飛ぶかもしれないとでもいうふうに千秋は早足で歩いた。
「待ってくれよ!」
それでも卓哉の声が追ってくる。卓哉はすぐ追いついて千秋の前に立ちふさがった。
「どいて」
しかし卓哉は必死の形相で逆に千秋に近づき、両肩をがっしりと掴んだ。
「頼む」
「離してよ」
「とりあえず、聞いてくれ」
「やめて。叫ぶわよ!」
急に犯罪者のような言われ方をして、卓哉はひるんだ。
そのすきに千秋は卓哉を押しのけて歩き出す。卓哉は必死に追いすがる。
「悪かった」
「……」
「許してくれとは言わない」
「……」
「でも、反省してる」
「……」
「とりあえず話だけでも聞いてくれないか」
ここで話に乗っては負けだ。千秋は立ち止まって、口を真一文字に結んで横に立つ卓哉の顔を凝視した。
急に見つめられた卓哉は、千秋の目に今にも涙が溢れそうになっているのを見て息を呑んだ。
何を言おうと駄目なものは駄目だ。千秋は素早く考える。どうしたらこの人はわかってくれるだろう。このままずっとまとわりついて家まで来る気だろうか。そして千秋は大きく息を吸い込んで一言一言はっきりと一気に言いきった。
「聞かない、話さない、帰らない! 二度と!」
「……」
「だから、あたしの前から消えて!」
そこまで言われて、卓哉はもう何も言葉を発せなくなった。
千秋はこれ以上卓哉に顔を見られてたくなくて駆け出した。そして駆けながら一言言い捨てた。
「送っとくから。離婚届」
卓哉はうなだれて、商店街の客の群の中に吸い込まれていく千秋の背中を見送った。
優衣は今日も布美子と暗室の発掘を楽しんでいたが、ふいにぐぅと腹がなって時計を見た。
「もうこんな時間」
「あら」
時計は7時を過ぎている。
「ママ、まだだよね」
不安な顔で布美子を見た。
裏口を空けて優衣が出ようとすると、ドアがうまく開かない。無理やり開けると、ドアの外に買い物袋だけが放置されている。
「こんとこ置いてちゃ腐っちゃうじゃん」
しかし、千秋の姿はどこにもない。スマホを鳴らしてみると、買い物袋の中の千秋のスマホが鳴った。
「……?」
スマホを置いて一体どこに行ったんだろう。買い物袋とスマホを手にして優衣が突っ立っていると、布美子が出てきた不思議そうに覗き込んだ。
「何してるの?」
「ママが……ママがどっか行っちゃった」
「え?」
蒲田駅の駅前はちょうどラッシュアワーで、たくさんの通勤客が続々と吐き出されていた。その駅前ロータリーの手すりに卓哉が腰掛けていると、優衣が駆けてきた。