「お客さん、2分だけ時間をちょうだい」
「え?」
「飛行機にはちゃんと間に合うように送り届けるから」
「はい」
繭子がうなずくと、タクシーは脇道にそれ、土手を登った。
土手の向こうは、海だった。遥か遠くに見える水平線に、ちょうど陽が沈もうとしている。
運転手さんに促されてタクシーを下りると、おびただしい金と朱色の光が、繭子を圧倒した。繭子の視界の全ては、わずかな痛みをともなって全身に染み込んでくるほどの光でいっぱいで、ふと繭子は、自分の体が光に吸い込まれて消えたと感じた。波はおだやかだが、吹きつける風や波の響きは、エネルギーの渦だった。繭子の細胞を洗いながら、浄化していく。
空には夜の断片と思われる薄い雲がかかっていて、下から黄金色に照らされている。雲の向こうに、淡い青空が昼間の名残りのように続く。鳥が小さな影となって、渡っていく。
「すごい」
繭子が口をきけるようになったのは、タクシーを降りてどのくらい経過してからだったろう。
「こんなにきれいな夕陽、見たことないです」
繭子は、すぐ横に立っている運転手さんを見た。運転手さんは嬉しそうに目を細めて、夕陽をまっすぐに見つめていた。繭子も再び視線を夕陽に戻した。
「ふふふ、さっき道を走っているときに”夕陽がきれいねえ”って言ったでしょう? 海沿いを走っていることを知らないようだったから、見せてあげたくて」
それからしばらく、繭子は運転手さんと並んで夕陽を眺めていた。
ふと、小さい頃の自分の声が耳に響いた。
「お母さん、どうしてお父さんはいつも時計ばっかりで、約束を忘れちゃうの?」
「止まった時間を動かしてあげるのが、大好きなのよ」
「でも、そんなの嫌」
繭子がふくれると、芙蓉子はやさしく笑った。
「お母さんね、昔とても大きな失敗をしちゃって、ずうっと1人で泣いていたの」
そのときに進が、こう言って励ましてくれたそうだ。
「時間は未来から過去に向かって流れているそうだよ」
芙蓉子が今抱えている悩みに、今は答えが見えなくても、その意味を理解できるときが必ずくる。なぜなら、全ての原因は未来にあるのだ。だからこそ、芙蓉子の過去も愛しいと進は言った。
「自分のできる範囲の、ささいなことでいい。それを一生懸命やっているうちに、だんだん道が拓けていく」
芙蓉子は、その言葉を思い出しながら進の修理した時計を見ていると、幸せだと言った。
「そろそろ行きましょうか」
運転手さんの声で繭子はふと我に返った。再びタクシーに乗ると、「すぐよ」と運転手さんが言う通り、路地を1つ曲がるとものの数秒で京急蒲田駅の裏手に着いた。料金を支払おうとすると、運転手さんは基本料金だけでいいと言う。せめて改めてお礼を言おうと、繭子は名刺をもらおうとした。すると、運転手さんは笑って手を振るのだった。
「名刺はないの。この町を好きになってくれたらそれが嬉しい」