ふと進の目に力が入った。しかし、繭子は止まらない。
「自分がゼロからものを作りだすわけでもないのに。どんなに人生を捧げても、お父さんの名前は残らないじゃない。その仕事に何の意味があるの?」
「繭子」
「もう今日は私、時間がないから」
進を振り切って、繭子は家を出た。夜は友人と食事の約束をしていたのだ。
結局その後、繭子は進と顔を合わせなかった。夜遅く帰宅すると進は先に寝ており、翌朝繭子が目覚めると、進は納品にでも出たらしく不在だった。荷造りをして、15時過ぎに家を出た。
商店街で花と線香を買い、多摩川線に7分ほど乗る。鵜の木駅の改札を出てに5分ほど歩くと寺がある。杉の木の真下が芙蓉子の墓だ。
バケツに水をくんで墓を掃除しているうちに、ふと無心になった。拭き清めた墓に手を合わせると、ぼんやりとした心地になった。
再び電車に乗って蒲田駅に戻る。このまま羽田空港に行こう。
東急蒲田駅は、ホームに天井がないので、空が広く感じる。ぼんやりしているうちに、繭子は誤って西口を出てしまった。本来は東口を出て商店街を道なりに進む。繭子は京急蒲田駅に向かっているつもりだった。
幾ら5年ぶりとはいえ道を間違うはずなどないのに、気が付くと見慣れない大通りに出ていた。これは環八通りだろうか。向こう側に渡るには、どこかで横断歩道を探さなければならない。見当はつかないが、引き返すのも面倒だ。
安易に歩き進めたのがまずかった。すぐにまったく見たことがない場所に出た。携帯の地図アプリを立ち上げようとしたが、あいにく充電が切れている。もう夕暮れが始まっていて、見えづらくなっていく。さらに数分ほど迷ってから、コンビニの角でタクシーを拾った。 運転手さんは50歳代半ばだろうか。明るい返事をすると、大通りを進み出した。1分ほど走ったが、いまだ街並みにまったく見覚えがない。東急線の駅から京急線の駅まで行こうとして迷ってしまったと繭子が言うと、運転手さんは笑った。
「去年だったかな、同じ状況のお客さんが乗りましたよ」
「へえ、やっぱり遠くに住んでいる人でした?」
「いえいえ、ずっと蒲田に住んでいるそうですよ。僕と同じくらいの男性でした。ただ、仕事が忙しくて駅まで歩くのは久々だって言ってたかな」
つと、左側に小さな森林のような一角が見えた。まるで黄金色に染まった空に浮かんでいるようだ。森林の手前は細い川が流れている。樹々の向こうに大きな建物は見えない。散々歩いて、多摩川まで来てしまったのだろうか。
「運転手さん、左側に見える樹は、公園か何かですか?」
「あれば病院です。背の高い樹に囲まれているの」
「へえ。昔からありました?」
「ええ、ずっと前からありますよ。この辺では一番大きい病院です」
病院を過ぎると、建物の数が一気に減った。道路に沿って駐車場が続き、その奥に土手が続いている。遠くに金色の空が広がっている。家の近所でこんなに美しい光景が見られたのか。お父さんは知っているだろうか。
「夕陽がきれいですね」
繭子が思わずため息をつくと、ふと、運転手さんは言った。