「お屋敷の奥からボーンと大きな柱時計が鳴ったんですって。それで、ふと横を見ると、そこのアパートの前だったんですって」
「なんだか、怖い」
「いえ、むしろその後何かいいことが続くと言って、縁起がいいことなのよ」
「癖になって、二度といつもの道に戻れないかもよ」
そう言って怖がる繭子を、芙蓉子は笑った。別の道を歩くのは長くても5分程度のことだと言う。よく、歩きながらぼんやりとして、何の脈絡もない風景がバッと頭に浮かんだ程度のことだ。実際にその道に迷い込んでも気付かずにやり過ごす人の方が多い。また、一度その道を歩いた人はいくら探しても二度とその道に出会うことはないそうだ。
「へえ、それなら私も歩いてみたいなあ」
「あら、気付いていないだけで、繭子も歩いているかもしれないわよ」
「そうか」
単純なもので、その話を聞くと少しだけ街の見え方が変わった。
アルバイトの日はデパートに30分ほど早く着いて、屋上にある遊園地でココアを飲んで過ごすのが繭子のお気に入りだった。晴れた日は遠くに富士山も見える。運がいいと10分ほど貸切りになることもある。いつものように屋上遊園地でのんびりしていると、ふと1人で観覧車に乗ってみたくなった。
観覧車はこじんまりしているので、1人で乗っても楽しい。観覧車から商店街を見ると、実は今も道が増えて、誰かが違う風景を見ているのかもしれないとワクワクした。
「仕事はどう?」
進に声をかけられて、繭子の意識は現在に戻った。ピータンとトマトに香草が乗ったサラダや、小龍包、海鮮ヤキソバなどを注文しながら、あの日と同じ料理を選んでいると気付いたときだった。
「変わりないよ。市民オペラの会人たちが5月に、中劇場で公演をするんだ。新居浜に戻ったら、すぐインタビューに伺うの」
「へえ。オペラって何語で?」
「今回の演目は『カルメン』だからね、フランス語。人が大勢出るし合唱も多いから、よく演るみたい」
繭子は現在、新居浜駅前にある美術館を中心とした総合施設の広報部で、月に1回無料配布する広報誌の編集者をしている。総合施設は地上2階と地下1階建てで、施設内には8の美術展示スペースと、中小2つの劇場がある。その施設ではほぼ月替わりでイベントが行われるので、毎月2人は主催者たちにインタビューを行い、それぞれ見開き2ページの記事にする。広報誌は表紙を併せて24ページあり、インタビュー記事とイベント情報を併せて掲載する。
新居浜市は、かつて別子銅山で行われていた銅採掘が街の発展の礎になっている。そのことから、総合施設の外壁には銅板が貼られており、市民に「赤い色の建物」として親しまれている。昨年、進が遊びに来たとき、繭子はまずそこに案内した。進とは家を出て以来会っていなかったので、正直にいえば何を話していいか分からなかった。新居浜は銅採掘から派生した企業の大きな工場が複数ある。関係者以外は中に入れないものの、せめて観光めいたことしたいと思って、繭子は車で工場の周りを案内した。