繭子は大学2年生の頃、毎週月曜日と木曜日の夕方3時間ほど、このデパートの総務部でアルバイトをしていた。資料整理の他、イベントやキャンペーンなどの掲示物を受け取ってデパート内に掲示したり、テナントに配ったりしていた。
総務部があるフロアの清掃は、50代前半と見受けられる林さんという女性が担当していた。林さんはぽっちゃりしていて、太い黒縁のメガネをかけていた。繭子は彼女と総務部に2人になること多かった。資料棚のあたりで新聞を整理していると、林さんは気さくに話しかけてくれて、よく作業をしながら話していた。
夏の納涼イベントの準備をしている時だった。繭子が「不思議な話大会」のポスターを広げていた時、林さんが楽しそうに言った。
「この街にピッタリよね」
首を傾げる繭子に、林さんは蒲田の言い伝えについて教えてくれた。
「ほら、昔から言うじゃない、蒲田は不思議な街だって」
「それって怖い系の話しですか?」
「あはは、違うわよ。民話みたいなもの。この辺は、駅前の商店街あたりを中心に、何かの拍子で道が1本増えるって昔から言われているの。聞いたことない?」
「初めて聞きました」
「通り慣れた道がまれに、蒲田ではない場所につながるというの。それは過去と現在と未来が混在する瞬間でもあるんですって」
「キツネに化かされたみたいですね。迷い込んだら、そのままですか」
「いいえ、すぐ戻って来られるそうよ。なんでも、その道はとても美しいんですって」
「林さん、この大会に出ましょうよ」
繭子が冗談を言うと、林は笑った。
家族3人で中華料理を食べたのは、その晩のことだった。 まずテーブルに、ピータンとトマトに香草がたっぷり乗ったサラダが運ばれてきた。ごま油の香りが食欲をそそり、繭子は気に入った。芙蓉子も進もにこにこしていた。
食べながら繭子は2人に、先ほど林から聞いた話しをした。すると芙蓉子は顔色ひとつ変えず、「そうよ」と言った。
「お母さん、知ってたの?」
「ええ。繭子に話したことはなかったかしら? 昔から蒲田に住んでいる人なら、まず知らない人はいなほど有名な話よ。ねえ?」
芙蓉子が微笑むと、進もピータンを頬張りながら頷いた。芙蓉子によると、繭子の祖父は生前、商店街の奥にある馴染みの居酒屋で一杯飲んだ帰りに、見知らぬ屋敷に迷い込んだことがあるという。
立派な門構えの大きな屋敷で、庭に5 m ほどの池があり、その向こうの屋敷では、大部屋の障子がすべて開け放たれていた。人の姿はなかったが、宴会の準備が整っている。床の間には赤い彼岸花が飾られて、豪華な金の糸で取り上げられた鳳凰の掛け軸が飾られている。朱塗りの碗なども輝き、祖父は「これほどの色彩がこの世にあったのか」と目を見張った。そこから家に帰ろうとしても、毎回屋敷の庭先に出てしまったそうだ。
「え、どうやって帰ってきたの?」