繭子の部屋がさっぱりしているのは、両親の影響だ。進は、特に刃物や針の後片付けにだけはうるさかった。職人には色々なタイプが居るそうだが、小さな部品を使って機械をmm単位で調整する職業柄だろうか、使っている最中はどれだけ物を広げてもかまわないが、いつもと違う場所に刃物を置いておくと、「そこに刃物があると知らない人がケガをする」と叱られた。母の芙蓉子(ふよこ)も同じだった。さらに芙蓉子は使わない物はどんどん手放して、いつも周囲がこざっぱりと片付いていた。時計を始め装飾品なども複数持っていたが、気に入っているものを修理しながら長く使っていた。
「だって、本当に大事なものって、そうはないと思うのよ」
と、芙蓉子はよく言っていた。
繭子は窓を閉めると、1階に戻った。コーヒーメーカーがコポコポと音を立てて、いい香りが広がっている。それ以外にほぼ物音がしないところを見ると、進はまた時計を覗き込んでいるのだろう。進も相変わらずだ。繭子はリビングではなく、その左手にある7㎡ほどの部屋に入った。
部屋の正面は仏壇があり、その中には、パッチリとした目が可愛らしい芙蓉子の写真が、こちらに微笑みかけている。綺麗に髪を結いあげて、物腰が上品な人だった。繭子の肌の白さと小柄なところは芙蓉子に似たが、 目と声が小さいところは進に似た。
芙蓉子が交通事故に遭って他界したのは、繭子が大学3年の秋だった。たまたま自転車に乗って坂道を下る途中に、貧血か何かで意識がなくなったようだ。病院からの電話を受けたのは、繭子だった。あいにく進は留守にしていた。進の携帯にかけてみると、三宿で修理品を引き取って、ちょうど帰るところだと言う。進に芙蓉子の入院先をメールして病院に駆けつけたのが、昨日のことのようだ。
繭子は線香を立てると、リンを鳴らした。澄んだ音が胸の奥に染み入り、錘のような悲しみを浄化していく。 繭子は音の余韻に包まれながら、両手をそっと合わせた。
ふと気付くと19時を回っていた。 新居浜を出る時は夕食を作るつもりでいたが、実家のソファに腰を下ろすと移動の疲れが一気に噴き出した。それを察した進の提案で、夕食は外で食べることにした。
商店街を歩きながらあれこれ迷っているのも楽しかった。そのうち駅に着いたので、デパートのレストランで中華料理を食べることにした。
「おいしそうだね」
繭子が言うと進は、窓際の席で冷たいジャスミン茶を飲みながら頷いた。メニューを開いて料理を選んでいるうちに、現在と記憶とが、ゆっくりと重なっていく。
この店には、大学2年生の夏に家族3人で来たことがある。初めてのアルバイト代が入ったので、エスカレーター横のソファで待ち合わせた。そのとき「何でもOK」と得意げに言う繭子に、「じゃあお言葉に甘えて、中華料理が嬉しいわ」と言ったのは、芙蓉子だった。「あなたは?」と芙蓉子に言われて、進はいつものようにはにかんで、「何でも嬉しい」と言った。進は、食べ物にそれほど興味がない。いや、時計の修理以外には興味がないと言っても過言ではないだろう。