欽治はあえて「ああ、出口近くの?」と言い直した。すると、昭夫は欽治の予想以上にわっはっはと大きな声を出して笑った。昭夫も中学生の時分を思い出しているにちがいない。欽治は中学のときと変わらない豪快な笑い声に、心がすっと落ち着くのを感じていた。
商店街の北口から、十五分ほど歩くと昭夫の息子の家がある通りに出た。右側に息子の家があるという昭夫の言葉を耳にすると同時に、左側の公園が目に入った。そのベンチで小学生くらいの女の子が泣いている。ふたりは顔を見合わせ、少女に近づいていった。
「お嬢ちゃん、どうしたんだい」欽治が話しかけても、耳に入っていないかのように、少女が泣きやむ気配はない。
「お腹空いているのかい」昭夫はビニール袋から弁当を一箱出した。使い捨ての弁当箱だった。「これでも食べて元気出しな」
欽治は驚いて昭夫を見た。そんな欽治の視線を感じてか「いいんだよ、一箱くらい」と笑った。少女はきょとんとしながらも泣きやみ、蓋を静かに開けると恐る恐る食べ始めた。
そこへ「真央!」少女の母親らしき若い女が走り寄ってきた。おそらく買い物中に少女が勝手にこの公園にひとりで来てしまったのだろう。母親に怒られないよう、昭夫が弁当を食べている状況を説明した。母親の剣幕に、少女は再び泣き出してしまった。それにつられるように、母親の胸元の赤ん坊も大声で泣き始めた。母親は「あの、本当にありがとうございました」とお礼を口にして、慌てて家に少女を連れていこうとする。しかし「あ、やだ、オムツ……!」と母親が声をあげて立ち止まった。
「どうしたんだい」と昭夫が聞くと、オムツを買い忘れてしまったことを力なく告げながら、重い買い物バッグを両手に、泣き叫ぶ乳幼児をあやしながら呆然と立ち尽くしている。ここまでの昭夫の世話好きぶりを目の当たりにしてきた欽治は、ひょっとして……という気持ちで昭夫をちらりと横目で見た。
「おまえ、他人に対してもずいぶんやさしいな」
オムツを買いにいく道中、欽治はあきれたような声のトーンを抑えられずにそう口にした。結局、残りの弁当も母親にすべてあげてしまった。
「他人っていっても同じ町の、しかも息子家族のご近所さんじゃないか」
「それにしたって……」
「おれにはたっぷり時間もあるし、どうせウォーキングするんだから、ドラッグストアで買って届けてあげながら距離を稼げば一石二鳥だろう。みんながしあわせってもんだ」
昭夫のウィンドブレーカーの袖が擦れるリズミカルな音を耳にしながら、その横顔をちらりと見やった。深く刻まれた笑いジワを残す形で、その周辺が日焼けしている。つまり、シワだけは白いのだ。こいつはよほどいつも笑っているんだろうな。欽治は、昭夫がなぜしあわせなのかがわかるような気がしてきた。家族に囲まれているということだけがその理由ではない。人をしあわせにしようとすることで、自分もしあわせを感じているのだ。
欽治は、中学生のときのことを思い出していた。通っていた桜中学校からまっすぐ伸びる道を歩くと、商店街のちょうど真ん中あたりに出る。放課後、ふたりはそこまで一緒に帰ると、南と北に別れた。「じゃあな」とお互い別れのあいさつを口にした後、昭夫は必ずといっていいほど「あした、数学の小テストがあるからな」とか「雑巾二枚持っていく日だぞ」など、忘れてはいけない事柄を欽治に向かって叫ぶのだった。商店街に昭夫の声が響き渡り、まるで自分がうっかり者のように思われそうで恥ずかしさもあったが、昭夫のおかげで欽治は忘れ物をすることなく、平穏無事に中学生活を送ることができたのも事実だった。