耳元でささやくように静かな声が聞こえた。声は優しく続く。
「おかえり……」
声のする方へ視線を向ける。そこにあるはずのない木で造られたベンチがある。薄紫の上品な着物を着た年配の女性が座っている。六十代後半ぐらいだろうか。背筋がピンと伸びて若くも見えるのでなんとも判断が付きにくいが声の主であることには間違いなさそうだ。
「あの……あたし……」
返事を返そうとしたが、どう返していいかわからず言葉がつまった。
「どうしたの?おばあちゃんのこと忘れちゃった?」
「…………」
「そうね。しかたないわよねぇ。あの頃からずいぶんと経つんだもの。みやちゃんだってこんなに大きくなって、かわいらしい娘さんになっているんですものね」
「あたしのことご存じなんですか?」
「えぇ。えぇ。よく知っているわよ」
これまで以上に優しい表情をこちらに向けている。僅かな間を置いて言葉を続ける。
「たいせつなまごですもの」
慈しみの笑顔、とでも言えばいいだろうか、相好を崩してこちらを真っ直ぐに見つめる視線。こんな視線を、こんな感情を今まで他人(ひと)から向けられた経験がない私はドキマギして思わず顔を背けてしまった。そして次の瞬間、おばあさんが見つめる対象が私ではなく、私の後ろに立つ誰かなのではないかとふと思いついて、後ろに振り向いたり、周りに首を回してキョロキョロしてしまった。しかしそこには誰もいない。やはりこの境内にいるのは私と、目の前の上品なおばあさんだけ。動揺してキョドってしまったことが急に恥ずかしくなってごまかすように境内の様子をぐるっと眺めてみた。
立派な拝殿の向かって右手に三つの鳥居が一列に並んでいる。石で造られた白い鳥居、その足下には植え込みがきれいに切り揃えられている。三つの鳥居が隣り合わせに並んでいる姿が印象的な境内だった。
「こちらに来て座らない?顔もっとよく見せて欲しいわ」
声をかけられハッとして、おばあさんの方に向き直った。静かだがよく透る声だ。頭の中にすーっと入り込んでくる。その声に誘われるままにベンチに歩み寄り、体を少し捻らせておばあさんの方に向き合うような格好で横に座った。
「会えてよかった」
おばあさんの視線がまだちょっと気恥ずかしい。視線を下に落としてふと見るとおばあさんの足下に白と黒のブチ猫が身体を丸くして尻尾を巻き込むような格好で蹲っている。どこかで見たような猫……
「今日はとっても嬉しかったわ。ありがとう」
「え?」
「小っちゃかったみやちゃんがこんなに立派になって……おばあちゃん安心したわ」
「あのぅ……あたし……」
「また会いにきてね。待ってるから」
静かに息をするように少し間を空けて言葉が続く。
「みやちゃんとこうしてまた会えたこと、神様にちゃんとお礼しなきゃぁね」
おばあさんの言葉に何か返したい。おばあさんの気持ちに何か応えたい。だけど頭の中が混乱していて何も思いつかない。何か発したいのにどうにもならない、焦燥にも似た感情が心と頭の中を行き来する。自分自身がじれったくてじれったくて……そんな気持ちが伝わったのか、
「いいのよ。いいのよ……」