周りで、ひときわ大きな拍手が沸いたので、見ると弁当屋の奥さんが壇上に上がるところだった。ばっちり化粧をして、ラメ入りのタイトなドレスを着こなしている。見違えるようだ。親衛隊のように拍手をしているおじさんたちは、おそらくスナックの常連さんに違いない。喫茶店のマスターと娘さんが壇上に残っていて、そのまま伴奏をするようだ。
スタンドマイクに手をかけた奥さんが、明日香を見つけて、小さく手を振ってくれた。なんだか照れ臭そうで、年をとってもかわいい人なんだなと思った。
マイクがポコンとひとつ音を立て、演奏が始まった。
あ、演歌じゃないんだ。勝手に演歌を歌うものと思い込んでいた明日香は、何だろうと思いながら、演奏に耳を傾けた。ブルース? どこかで聞いたことのあるイントロ。
奥さんの綺麗に伸びる声が、マイクを通じて夜空に広がった。
えっ! ミーシャ……。しかも、圧倒的に上手い。
明日香は思わず歌に引きずり込まれてしまった。周りでも足を止める人が増えてきて、すぐに人だかりができた。皆、壇上の歌姫を見詰めている。
奥さんは手ぶりを交えながら、感情たっぷりに歌い上げていく。歌声が心にしみて涙がこぼれそうになる。
奥さんのこんな一面を、明日香は身近にいながら全然知らなかった。この実力なら、若いころは歌手を目指していたと言われても決して驚かない。いや、今でもそんな夢を心のどこかに持っているのかも知れない。
でも、明日香の知っている奥さんは、やっぱり昔から弁当屋の娘さんであり、奥さんで、シミのついたエプロン姿で、うつむきながらお弁当のおかずを黙々と詰めている。
ふと、一将の言葉を思い出した。
「オレは、しがらみに縛られるのが嫌なんだ」
そう言い残して、一将は家を出ていった。
果たして、しがらみに縛られていない人間なんて、この世の中にいるのだろうか。今、目の前で別人のように輝いている奥さんだって、生まれた時から弁当屋の娘で、どんな事情があるのかは知らないけれど、家に残って弁当を作り続けている。同級生の哲雄や真哉だって、綿々と続いている家業を継がざるを得ないのかも知れない。明日香自身も、母を亡くし父が不在という運命の中で、おばあちゃんの面倒を見ていかなければならない。皆、何らかのしがらみの中で、何とか自分の人生を見つけようとしてもがいているのではないだろうか。
人間て、そんなものなのではないかと思う。世の中も、そうやって続いていくのだろう。
なのに、ひとりだけ、生まれた街や家族というしがらみをあっさり捨て去って、のうのうと生きている奴がいる。一将だ。本当に腹が立つ!
今夜一番の盛大な拍手が沸き起こった。壇上を見ると、一曲を見事に歌い終えた奥さんが、恥ずかしそうに 顔を赤らめながら、腰を低くして頭を下げている。つかの間の歌姫は、すっかりいつもの奥さんの姿に戻っていた。
明日香は見物客の輪を何気に離れ、打ち合わせ通り所定の場所についている哲雄と真哉に視線を送った。こちらの頷きに対して二人ともしっかり頷き返してくる。いよいよ実行の時が来た。
身内の拍手に迎えられて、派手な服装の一将が壇上に上がってきた。