一将というやつは、頭に来ることに、人にいい思い出しか残さないという、得な性格を持ち合わせている。
その時、腹時計がおばあちゃんに食事をさせる時を告げた。明日香は一気に現実に引き戻され、深いため息をついた。
自宅でおばあちゃんに簡単な食事をさせ、仕事場に戻った明日香を、弁当屋の奥さんがニコニコ顔で待っていた。
「ちょっと、明日香ちゃん、聞いたわよ。カズくん、戻ってきたんですってね」
この街では、何かを秘密にしておくことは難しい。
「今夜ね、カズくんのために商店会で催し物をやるみたい。久しぶりに、みんなが揃うのよ。ほら、商店会の会長も副会長も私も、カズくんとは同級生だから。ああ、もう、わくわくするわ」奥さんは、少女のように胸の前で手を合わせた。「今夜はきっとお祭り騒ぎね。私もね、ステージで歌ってほしいって言われているの。緊張しちゃうわ」
弁当屋の奥さんは、系列のスナックのママも兼ねていて、カラオケの上手さには定評があるようだ。
商店街を挙げての大掛かりなイベントがあるとは告知されていないので、おそらく、ちょっとした演芸大会的な催しなのだろう。それにしても、チラシひとつ配られていないとは、ずいぶんいい加減なものだと、明日香は半ば呆れた。
一将も当日入りとは、何ともせわしない。まさか、一将はこれだけのために帰ってきて、家には寄らないで帰るつもりなのだろうか。まさか……。
「おーい、明日香。大変なことになってるぞ!」
人の流れや、年寄りの手押し車の間を器用にすり抜けながら、酒屋の哲雄が弁当屋の店先に駆けつけてきた。
「今夜だよ、今夜!」
「それ、知っているから」
「おっ、情報早いね。でも、すごいぞ。アーケードの入り口のほうに、あっという間に小さいステージができて、おまけに、横断幕まで張られててさ。そこに、お前んとこの親父の名前がドーンと」
「出てるのか?」
「出てる」
「恥ずかしいな」
「うん。歓迎! とか書かれているから、結構恥ずかしい」
明日香は思わず腕組みをして、唸ってしまった。
「おい、テツ、このまま黙っているわけにはいかんな」
「え?」
明日香に肩を抱かれた哲雄の目に、不安の色がよぎった。
夜のイベントは、商店会が内輪で盛り上がっているような、まさに同窓会的なノリの催しだった。紅白の幕が張られた狭い壇上では、スーパーの社長の素人芸丸出しのトランペット演奏がやっと終わり、続いて喫茶店のマスターが下の娘さんの電子ピアノの伴奏でサックスを吹き始めたところで、辺りにほっとした空気が流れている。
集まっている人は地元の顔見知りばかりで、一般の買い物客にとっては居心地が悪いのか、少し足を止めるだけですぐに通り過ぎてしまう。
この後、お世話になっている弁当屋の奥さんの歌があり、それが終わると、いよいよ一将の登場となる。
手順は、酒屋の哲雄と呉服店の真哉によくよく言い含めてある。
「わかってるな。奥さんの歌までは、何もするなよ。それが終わったら、実行だからな」
「でも、そんなことして、本当に大丈夫なのかな」
真哉が眼鏡に手をやりながら、気弱なことを言った。
「こんな古典的な手法、笑い話で済まされる程度だから、大丈夫だって。とにかく、一将に格好をつけさせなけりゃいいんだよ。お前らだって、いつも押さえつけられてるオヤジたちに、ひと泡吹かせてやりたいだろう」
哲雄と真哉が顔を見合わせて、うんうんと頷いた。