自分で稼いだお金で大学を目指すのだから、あまり文句はいえない。仕事の一貫といわれてしまえば、両親からの干渉もそこまでだった。
都内に入ると少しだけ道路が混み始めた。雨は予報どおり少しずつ強さを増して、ラジオの声も聞きづらいくらいになった。そのラジオに「曲なんかかけないでしょ」と姉が急に反発しはじめる。のんびりした声の男性アナウンサーが『掃除のときにはかどりそうな曲』を紹介していた。雨の日には不釣り合いなテーマだ。
「でも、これはいいかもね」と姉は険しい顔のままいった。
雨の音に混じって聞こえる女性たちの歌声はやけに牧歌的だった。
「これ誰の歌?」と聞いてみる。
「スール・スーリールのドミニクって曲」
「よく知ってるね」歌手の名も曲名も聞いたことがない。
「ドミニクっていう名前の子が神の使いみたいだとか、誉め称えられる」
「それって、掃除に合うかね」
「うーん。でも途中でニクニクっていうとこは好き」
たしかにそう聞こえるが、そんなことは聞いていない。
昔から姉と話していると、小さな川の両岸を、橋を探して向こうとこっちで平行に歩いているみたいな気分になる。しかも僕は姉のほうを気にしながら歩いているのに、姉は空とか川面とか飛んでくる白鷺なんかを眺めながら、気ままに歩いているような感じなのだ。
「肉食べたいね。私の受験を祝って」
受験をというのはおかしなもんだ。でも、肉には賛同することにした。もう往復で五時間くらい運転している。さすがに疲れてきたし腹ぺこだった。部屋に荷物を置いたら駐車場へ向かって、その流れで駅前の焼肉店へ行くことにした。
蒲田にあるマンション前に到着したのは、ちょうどラジオから時報が聞こえた夜の七時。これから次の番組がスタートというところでエンジンを切った。雨の音が急に近くなる。風も一段と強くなっている気がする。さっさと荷物を置いて肉を食べにいこうと二人同時に車を降り、雨を避けて一階の部屋の玄関前まで駆けたとき、車のほうから湿った衝突音が聞こえた。
初めは何が起きたのかわからなかった。振り返ると、フロントガラスあたりが白いなにかに覆われている。恐る恐る戻って車に近寄る。雨粒で目が開けられない。
「布団だ」姉のほうが先に気づいた。
住んでいるマンションの階上から降ってきたのだ。風に飛ばされたのだろうか。
姉は「東京って夜に布団干すの?」などと聞いてくる。
「いや、干さないでしょ……」驚いてしまってあとが続かなかった。
雨水をたっぷり含んで見るからに重そうだ。触らなくてもわかる。フロントガラスは割れてないがボンネットは少しへこんでしまったかもしれない。いやいや待ってくれ、車、買ったばかりだぞ。
「あーあ」といいながら、姉は布団を突いてちょっと楽しそうにしている。
戸惑いながらも僕はなぜか天気のよい日の実家を思い出した。銀のセダンのボンネットに布団を干していて、小さい頃の姉はその上に寝そべって本を読むのが好きだった。一度、そのまま眠ってしまって全身真っ赤に日焼けした姉は、車の上から中にそのまま移され病院に担ぎ込まれた。そのとき運転していた父もいまの姉のようにへらへらと笑っていた。そして母に怒られたのだった。父と姉は似ていて、僕はどちらかというと母に似ているのかもしれない。
警察に通報するか迷ったが、騒動を大きくしないほうがいいのではないかと思い、大家さんに電話をした。幸い、近所に住んでいて雨の中すぐに駆けつけてくれた。
大家さんはひどく痩せていて風に吹かれたら飛んでいきそうな初老の女性なのだが、見た目に反して動きがてきぱきしている。マンションの周りをトレーニングするみたいに、素早い動きで隅から隅まで掃除しているのをよく見かけた。