「夏帆ちゃん、今度一緒にそこの観覧車に乗らないかい? 」
「ええ、乗りましょう」
そこにさえぎる物はなにもなく、まるで自然に予定調和のごとくふたりは言葉を交わした。夏帆が続け言った。
「おさない頃よく両親に連れられ乗ったわ」
「そっか夏帆ちゃんもともと地元だったよね」
「うん、両親も共に地元で、若い頃デートで乗ったって」
「へえぇそうなんだ。夏帆ちゃんもデートでよく乗ったとか」
「それが残念なことにないの。大人になってからいちども乗ってないわ。だけど今度杉村さんと乗れるわね、楽しみ」
「僕もすごく楽しみだよ」
夏の夜にそよと柔らかな風が吹いた。ふたりはそっとその頬に優しい風をうけとった。ふたりの会話はとぎれなく続いた。たわいない世間話におかしくふたり笑った。春良は、ちょっと前の過去、少し遠い過去、薄れゆく曖昧なる遠い過去、昔話はみな、暗い影を落とす過去さえも、その暗い影に夏の夜空の星影がさし、もう過ぎ去った笑い話となり、懐かしく夏帆に話した。夏帆は春良のそんな話を、ときどき上手に間の手をいれながら、笑顔で飽きることなく聞いた。そして自分が生まれ育ったこの街のことを愛情たっぷりに彼に話した。春良は夏帆の言葉にて知る、さまざまなこの街の知識に、自分もずっとこの街に暮らしているような錯覚がした。そして愛情を覚えた、この街に、夏帆に。
ビアガーデンをあとにしてふたり夜の街をべつにあてもなくただのんびり歩いた。ぞんがい昼の暑さがぐんと和らいでときおり吹く風がじつに心地よく感じる。
「ちょっとわたしにもその帽子かぶらせて」夏帆が春良のかぶるパナマ帽に目をやりながらいたずらっぽく言った。
「大きいけど」そう言って、春良は右手で自分の頭からパナマをとり、夏帆の頭のうえにちょんと乗せた。
「うん、いいかも。あの…… 」
「えっ、なに? 」
「うん…… 」
ふたりは夏の夜の街、道の片隅に立ち止まり、しばし沈黙した。パナマを頭に乗せて夏帆は微笑んでいる。春良はちょっと下を向いた。それからまた顔をあげ、真剣な目で彼女の瞳の奥をじっととらえた。
「ちょっと年が離れてるんだけど…… 夏帆ちゃん、僕とつき合ってくれないか」
微笑んでいた夏帆の表情が真剣となった。
「それって友達じゃなく…… 」
彼女は最後まで言わず言葉を途中で切った。春良は、それに黙ってうなずいた。
「わたしでよければお願いします」と夏帆は、ふたたび微笑を浮かべた。
「春良くんちょっと相談があるんだけどさ、いいかい? 」
帽子を見にきた春良に高橋さんが言った。
「はい、どうしました? 」
「おう、あのさ今度店を新装するんだけどよ。そこでな、こうなんて言うかな、看板やら店の袋やらによ、なんだこう店をあらわす図案って言うんかな… 春良くん絵を描いてるんだろ、だからさ、あのさ…… 頼みたいんだよ」
「ああ、はいはい。だいたい言いたいことはわかりました。僕にこの店の宣伝にのせるイラストをデザインして欲しいんですね」
「そうそうそのイラストのデザインよ」
「やりますよ。まかせてください」
「それでどのくらいかかるんだ」と高橋さんは、冗談っぽく右手でお金の印を作って見せた。
「お金なんていいです。いつも良くしてもらってますから」
「それじゃ悪いだろう」
「いやほんといいです。その気持ちだけで結構です」
「そうか、それじゃ言葉に甘えるとするか」
「ええそうしてください。高橋さんの気にいるようデザインできるかどうかは分かりませんけど、まあやってみます」
夏帆との真剣な交際をはじめて、夏が終わり秋となり、感傷にふけるまもなく冬がきて年の瀬をこえ、寒い寒いと身をちぢませているうちに、もう桜の花の咲く時節となっていた。
心身ともに良好な春良は仕事に精をだした結果、あるひとつのイラストが業界の注目を集め、この頃急に名が知れるようになってきた。さらに仕事に精をだす彼は忙しいのであるが、それでも高崎さんの頼みは、すぐに無償で受ける気になった。