「夏帆ちゃん休みの日に職場いくの嫌じゃない?」
案内嬢の名は夏帆と言った。この日仕事は交代で休みだった。実は、これからふたり向かうビアガーデンは、彼女の職場の屋上にある。
「ぜんぜん嫌じゃないですよ。べつに休みですから堂々といけます」
「いや… と言うか、休みの日まで職場いきたくないかなってさ… 」
「それって仕事が嫌いなの前提にしてません?」
「まあ… うん」
「わたし仕事も職場も好きですから」
「そうか、そうだよね、そんな感じする。ゴメン」
「杉村さん、そんなべつに謝らなくても」
「それより職場の知り合いに見られても大丈夫?」
「杉村さん気にしすぎですよ。悪いことしてるわけじゃないんだし、気にしない気にしない」
「そっか、それならいいんだけどさ」
男女ではあるがふたりは純然たる友達である。残念ながらふたりの間に読者が期待するような色めいたところは今のところ一切ない。だけどこの先のことは分からない。ふたり共にフリーである。ゆえに不倫にはならない。と、フリーと不倫をかけてみた。くだらぬことをゴメンなさい。兎にも角にも仲良くふたりして屋上ビアガーデンへと、楽しくおしゃべりなんてしながら、並んでてくてく歩いた。日が落ちて街の灯りがふたりを優しく包んだ。
「よお、絵描きの兄さんいつも帽子が似合ってるねえ。あら、デートかい? なかなか兄さんも隅に置けないねえ」
ふたりがビアガーデンに入ったとたんばったりと、ジョッキ片手に顔を茹蛸のように赤くした、商店街の乾物屋のオヤジに出くわした。
「乾物屋さん何べんも言ってるけど僕は絵描きじゃなくってイラストレーターですよ」
「イラストレーターって絵を描くんだろ、だったら絵描きじゃねえか」
「いや違い… めんどくさい。まあどっちでもいいや」
「ん…… あっ! お相手は下でいつも案内のところに立ってるべっぴんさんじゃねえか」乾物屋が春良の相手に気づいた。
「こんばんは」夏帆は軽く頭を下げ乾物屋に挨拶をした。
「おふたりさん付き合ってるのかい?」顔をにやにやさせながら乾物屋が問う。
「ただの友達ですよ」春良答える。
「ふっ、どっちだっていいや。まっ、仲良くやってや」
そう言って乾物屋は、ビールジョッキを顔の辺りまで上げ、乾杯するような仕草を見せてから、自分の席へと少々千鳥足に戻っていった。
「ちょっとまずいな。乾物屋さん口軽いので有名だからすぐ商店街の噂になりそうだ」
「噂されたって気にしなければ大丈夫ですよ」と、夏帆は全然平気なものである。
「そうだね。ただの友達なんだし」と春良、なぜにか友達を強調する。
ふたりは予約した席についた。ビアガーデンは繁盛して大変賑やかである。ふと春良が向こうに目をやると、そこにも知った顔があった。まるでずいぶん長くこの街に暮らしているかのようだ。そう思うと彼は、急に不思議な気持ちとなった。
暑さに大変のどが渇いていたふたりは、ジョッキにつがれ良く冷えた生ビールをあっという間に飲み干し、すぐにジョッキは二杯目となった。ビュッフェ形式で数々用意されている料理のなかから好きなものを取って食べた。ビールに飽きて陽気にテキーラなんかもショットで飲んだりした。酔いにつれふたりの会話はより親しみのあるものとなっていった。
料理を取りに夏帆が席を立った。ひとり残った春良はぼんやりそこに見える、屋上観覧車をながめやる。観覧車のうえ夏の星がまたたいている。屋上観覧車がある街に暮らすのは初めてである。どこかほのぼのとして良いものだと思う。まだ乗ったことがない。いちど乗ってみたいと思う。けれど三十なかばの男がひとり乗るのもなんである。寂しい。できれば天気の良い日に女性と一緒に乗ってみたい。だれか一緒に乗ってくれる女性はいないか。無邪気な童心に帰って、きっと楽しいことに違いない。春良は天気の良い日屋上観覧車に乗るふたりの姿を空想した。眼下には短い期間で親しみを教わった街が広がる。そこに住む知った顔が街のなか点々として浮かびあがる。八百屋、果物屋、肉屋、魚屋、乾物屋、本屋、雑貨屋、居酒屋…… 帽子屋の高橋さんの顔が浮かんだ。空想のなか彼は、視線を眼下広がる街の風景から、観覧車のなか自分の前に座る女性に移した。と、そのとき夏帆がタコスを皿に乗せ戻ってきた。空想のなかの春良の視線は、そのまま現実にいま、自分の前の席についた夏帆に向かった。