ところで彼は、この街へ来てから外出するときは、だいたい決まって帽子をかぶる。今日も頭には涼しげなパナマ帽が乗っている。それは別に薄い頭髪をかくすわけじゃない。てぇ言うか、有難くもまだ彼の髪は薄くない。が、帽子ばかりかぶっているとこれから先薄くなってしまう懸念はあるにはある。まあそれは置いといて、と。彼はちょくちょく高橋さんの店に顔を出す。
高橋さんて誰? 帽子屋です。高橋帽子店の店主です。そう、春良くんがこの街へ来たころに茶色のソフトを買った、商店街にある帽子屋の店主であります。春良くんが高橋さんの店に二度目に顔をみせたときは、もうまるで長年の馴染み客のように高橋さん春良くんに接しました。「毎度毎度毎度」と、三度も毎度を述べました。高橋さん春良くん好みの帽子を仕入れてました。「これなんてどうだい? 新しく仕入れたんだけどさ」って高橋さん、棚からブルーのハットを手に取って春良くんに見せました。春良くんすぐハッとして気に入ってまた買っちゃいました。そんなこんなでそれからも、春良くん高橋さんの店へ、ちょくちょく顔を見せるようになりました。もともと帽子が嫌いでない春良くん、外出のときには決まって、お気に入りの帽子をかぶるようになったのです。
「よお、帽子のあんちゃん! どこ行くんだい?」
魚屋のオヤジが店の前を歩く春良に威勢よく声をかけた。
「ちょっとビアガーデンへ」足を止め応えた。
「おっ、いいねえ! 今日は暑かったからなあ、グビッとのどごし最高じゃねえかい」
「オヤジさんも店なんてちゃっちゃと終わらせて一緒に行きませんか? 」
「あぁ、そうしたいとこだけどよ… オニババに怒られちまうからなあ」
「ちょっと誰がオニババだって!」
奥さんが奥から店先に顔を出した。「じゃあ」と軽く頭を下げ春良は止めた足をふたたび前へ進めた。
彼女は待ち合わせのビルの前すでにいた。目と目があって彼は「やあ」と手を上げた。
「待った?」
「ついさっき来たところ。今日も帽子似合ってますね」
「ありがとう。暑かったね。昼はどこか行った?」
「ええ、ちょっと友達と買物に。このTシャツも今日買ったの、なかなかいいでしょ」
「うん、いいね。かわいいよ」
彼女とは、春良がこの街で友達となった十ばかし年下の女性である。デパートのインフォメーションに立っていた、あの若い女性である。春良が傘を扱うところを尋ねたら、問いに応じる前に帽子が似合うと褒めた女性である。容姿が春良の結構タイプな女性である。傘を買って以来春良は、結構頻繁にデパートへと足を運んだ。そしてその度ごとにインフォメーションで彼女と二言三言言葉をかわした。ある日春良は軽い気持ちで彼女を食事に誘ってみた。彼女はすんなり誘いに応じた。それ以来すっかりふたりは仲良くなった。
あまり本編とは関係ないが、ここで簡単に春良の女性遍歴について述べる。容姿は悪くないのだが口数が少なく照れ屋でどちらかと言えば運動の苦手だった彼は、小学中学とまったくモテず、バレンタインのチョコひとつ貰った事がなかった。好きな女の子がいても告白する事はおろか話しかける事もできず、目が合えば下を向き頬を赤らめモジモジとした。
高校生になってからも相変わらずモテなかった。高校二年の夏勇気を振り絞って好きな女の子に告白したがあっさりフラれた。結局三年間女性には縁がなかった。それが高校を卒業し専門学校に入ったとたん急にモテだした。調子に乗った彼は二股三股複数の女性と同時につき合った。それがもとで面倒な事になったりもした。それでも懲りず、女性が言い寄れば手当たりしだいに手をつけた。
専門学校を出ていったんデザイン関係の会社に就職した。そこで彼はひとりの女性を本気で好きになった。なんとか自分のものにしたいと猛烈にアタックした。最初あまり手ごたえなかったが、しまいに彼の押しに負け彼女は首を縦にふった。彼女一途につき合った。
しばらくして彼は会社をやめフリーのイラストレーターとして一本立ちした。彼女との結婚を考え始めた。そしてそれを彼女に伝えた。彼女は彼との将来に不安を抱いた。実はそのとき彼女は別の男性から言い寄られていた。その男性は大きな会社に勤め安定した将来が約束されていた。結果彼女は春良でなくその男性を選んだ。春良はひどく落ちこむと共に専門学校時代のバチが当たったのだと、当時を後悔した。それ以来彼は特定の女性と交際していない。