男はソフトを値札の額よりずいぶんと安くしてくれた。
「良いってことよ。またカッコいいの仕入れておくからな」
「ええ、また来ます」
春良は、また来ます、と自分の口から自然に出た言葉に自分で驚いた。初めて来た店に関わらず、まるで自分が馴染み客であるかのような気になった。満更でもなく店を後にした。
商店街のアーケードを抜けて、街を歩いていると、ぽつり雨のしずくが、買ったばかりのソフトのつばに落ちた。ぽつり又ぽつりと徐々に点滴が地面を濡らしてゆく。帽子のおかげで髪は濡れぬ。されど肩のあたりから次第に冷たくしてゆく。傘を持たない彼は小走りにデパートへ逃れた。
「すいません傘を買いたいんですが、どちらの方で扱ってますかね?」
ふと思えばマンション玄関の傘立てにあるのは安価なビニール傘が二本ばかり。春良はデパートに来たついでに、ちゃんとしたと言うのもおかしいかも知れないが、何か自分に気にいる傘を買おうと思い立った。そこで傘の売っている場所をインフォメーションに立つ若い女性に尋ねた。
「こんにちは素敵な帽子ですね、とてもよく似合ってますよ」
案内嬢は馴れ馴れしくもそう言ってから「えっと傘ですね…… と彼の問いに応じた。そんな風に接せられるのを元来嫌う春良なのだが、不思議となぜか嫌な気が起こらなかった。それどころか似合うと褒められて嬉しくさえ感じた。女性の容姿が結構タイプなこともあるが、なんだろう? この街が持つ空気が彼の人嫌いを緩和させているのかも知れない。
インフォメーションで教わった生活雑貨の店で彼は渋いグレーの傘を買った。どの傘にしようか悩んでいると、人なつこい感じの女性店員が話しかけてきた。ここでもいっこう嫌な気は起きず彼は素直に相談をした。店員は親身になって一緒に悩んでくれた。結局店員が勧めてくれたその傘を春良も気にいった。
デパートの外、雨は本降りとなっていた。春良は買ったばかりの傘をさして、ひとり暮らすマンションの部屋へと歩いた。雲が垂れ込めて昼間にかかわらず空はとても暗いが、部屋を出たとき沈んでいた彼の心は、比較的上向いていた。
春良がこの街に引越して数ヶ月がたった。知らぬまに商店街の何軒かの店で馴染みとなっていた。商店街の他でもやはり何軒かの店で馴染みとなっていた。彼にとってこれまでそんな事は一度たりともなかった。それは、外に出ても心のシャッターを閉じていた彼にとって、ある意味当然であった。それが今ではどう言うわけか先に述べたとおりである。閉じたまま錆つき開けるのが困難と思われたシャッターがなんの苦もなく、ふと気づけば全開になっていた。ほとんど煩わされることなくごく自然体に人づきあいが出来ていた。それには誰でもなくまったく彼自身が一番驚いている。
八月上旬、昼間気温三十五度を超える大変に暑い日だった。春良はクーラーを効かせた部屋で順調に仕事を終わらせた。夕暮れ前彼はパナマを頭にちょんと乗せ部屋を出た。多少気温は下がったものの、クーラーの効いた部屋と違って、まだまだ外はじゅうぶん暑い。すぐに汗がシャツをじわり濡らした。だけれどこれから向かう先のことを思うと、暑さがかえって興をそえた。彼は頭に乗せたパナマを、右手のひらでちょいと前へ傾けた。夏日がじょじょに暮れゆくのを感じながら軽快に街を歩いた。ときおり誰となく挨拶をかわした。