「どした?」
恵奈は滔々と説明する。
かつてこの先に大手百貨店の総支配人の邸宅があり、恵奈はこの近所にあった造り酒屋で生まれて四年生まで学校に通ったのち、総支配人の邸宅にお手伝いさんとして丁稚に出された。
富豪の奥さんといえば意地悪女というのが相場だが、しかしその女性はとても優しく、とても美しく、とてもよくしてくれた。午前十時と午後三時に奥さんが用意してくれるおやつの中で一番のお気に入りがカリントウだった。
恵奈が多摩川で溺れたとき、自らの危険を顧みず助けてくれたのも奥さんだった。
邸宅には松竹で撮影を終えた俳優さんたちがよく足を運び、そのたびにお手伝いさんたちはキャッキャと黄色い声を上げて仕事をおろそかにした。それさえ奥さんは笑って許してくれた。
蒲田の撮影所はやがて大船に移り、そして大船の撮影所もなくなり、今はマンションになっている。同時に、奥さんの優しい笑顔も遠い思い出となった。
「私も奥さんみたいに優しくできてたかね?」
恵奈は懐かしむような目をした。
「優しかったよ。可愛い孫たちに対しては」
「可愛い孫たち? そんなのいたっけ?」
「ここにいる! 大恋愛の末にできた可愛い孫たちが!」
「何が大恋愛だよ。アンタらの親は目蒲線沿線に住んでたんだから安上がりな恋愛だったよ」
「その目蒲線も目黒線になったけどね」
翔子が笑ったらラムネのビー玉がカランと鳴った。
恵奈は翔子を東急プラザの屋上に連れてゆき、自慢げに観覧車を指す。
翔子は拍子抜け。
「物理的って、これ?」
「上に上に行かなきゃならないからね」
「おばあちゃんは誰からも見えてないから、一人分の料金でいいよね?」
翔子が財布を出すと、ようやく自分の腕が透き通っていることに気付く。
「何じゃ、こりゃあ!? バック・トゥ・ザ・フューチャーじゃん!」
「やっと気づいた?」
「いつから透き通ってた!?」
「お墓にお線香を上げたとき。でもその前から周りの人には見えてない」
「どうして!? どうして!?」
「片足を突っ込んでるからだよ、あの世に」
「あの世!?」
「いいから乗るよ」
恵奈は翔子の腕を掴もうとする。しかし互いが透き通っているため腕を掴むことができない。
翔子は後ずさりする。
「どうして私があの世に!?」
「今、翔子は集中治療室で死にかけてる。で、病院までお迎えに来たのが私。なのに迎え火を焚かれちゃって、あのマンションにワープだよ」