きょとんとして振り返った加奈子は、酔いもあってしばらくぼんやりと相手を見つめた。中肉中背の男、冴えない顔、灰色の服――。忘れかけていたことを思い出し、急いで悲鳴をあげようとしたら、「待ってくれ!」と男が慌てた。
「待ってくれ。俺の名前はラベンダー・メリー。聞いたことがあるだろう?」
「――はい?」」
おかしな男の相手など端からしないことが一番なのだろうけど、あまりに奇妙な言葉につい聞き間違えたのかと思って加奈子は思わず叫び損ね、尋ね返してしまった。
「驚くのも無理はない。あの、ラベンダー・メリーだ。今ではすっかり色あせてしまったけれど、昔はその名の通り、この身体もきれいなラベンダー色だったんだぜ」
そう言って男は袖をつまみ、誇らしげに腕を広げる。
「君はラベンダーみたいな淡い紫色が好きだったね」
「はい?」
加奈子はたじろいだ。男の指摘は正しく、小さな頃から加奈子はそういった色をよく好んできた。
「どうして?」と尋ねると、男はようやく安心したように「俺は君を知っているんだ」と笑った。嫌な笑い方ではなかった。
「君は小さい頃、この街に住んでいた」
「住んでいません」
「住んでいたよ。覚えていないだけさ。それで君は、ラベンダー・メリーが大好きだった」
「はい?」
〈ラベンダー・メリー〉とはこの男のことのはずだ。気味悪く思って加奈子が後ずさりすると、男は悲しそうに眉を寄せて「君はまさか、ラベンダー・メリーのことも忘れてしまったのかい?」と言った。
「なんのことだか分かりません」と加奈子が答えると、「君は小さすぎたんだね」と、しょんぼりと肩を落とす。それから不安げに「俺はある人に頼まれて君を探していたんだけど、君はその人のことを覚えているだろうか?」と呟いた。
「誰ですか?」
「覚えていて欲しいんだ」
「誰ですか?」
「そうでなければせめて、思い出して欲しい」
「だから、誰のことですか?」
そう尋ねると男は、「来れば分かる」と答えた。商店街のアーケードからぶら下がる時計を見上げると、「急ごう――。夏の朝は早いから」と言って加奈子の腕を掴む。そしてそのまま走り始めた。「え? うわ!」と加奈子は悲鳴をあげる。男は身軽で、速かった。飛ぶように走る。いや、本当に飛んでいた。いつの間にか商店街のアーケードの上を、ひょい、ひょい、ひょいと飛んでいく。男に手を引かれている加奈子もやはり、飛んでいた。
「どうして?」
息を切らしながら驚きを漏らすと、男は得意げに微笑んだ。