よく知っている場所のような気がした。来たことのある場所のように思った。夢で見た玩具売り場に似ているように感じた。だけどそのくせ、なんてことのない、よくある普通の玩具売り場だった。
「…いらっしゃいませ?」と店員に声をかけられ、加奈子は我に返って赤くなった。「あの…見間違いでした」と見当違いな答えをして、ぽかんとしている店員を残したまま、今度は下りのエスカレーターを駆け下りる。いくらか走ったところで、山崎さんたちに追いついたらなんだか気まずいと思って足を止めた。改めてゆっくりとエスカレーターに運ばれながら、どこにでもある普通の玩具売り場だったじゃないか…と、わざわざ駆け戻ったことを変だし恥ずかしいと思った。
きっと疲れているんだ。早く家に帰ろう――、そう考えながら駅ビルを出た瞬間、誰かに腕を掴まれる。振り返った加奈子は思わず、はっ、と小さな悲鳴をあげた。灰色の薄汚れた服を着た、五十くらいの見知らぬ男が立っていた。
「君」と、男が言う。
「間違いない。君、だ」
慌てて腕を振りほどいて走る。「待て! 待ってくれ!」と男が叫んだ。大急ぎで改札を抜けて発車間際の電車に飛び込む。心臓がバクバク鳴った。ドアが閉まるまで男が追いかけてくるのではないかと気が気ではなかった。最寄駅に着いてからも、怖くて急いで家に帰った。パジャマを着た母の「おかえり」を聞いてようやく安堵する。「どうだった?」と母が聞くので、「同期の子たちとご飯を食べてきた。楽しかったよ」と答えた。母を心配させるのが嫌だったので、男の事は何も話さず、早々に自分の部屋へ入ってドアを閉めた。
その夜、加奈子はまた玩具売り場の夢を見た。
そこはやはり今日、エスカレーターを駆け上がって見に戻ったあの玩具売り場だった。加奈子は子どもで、相変わらず藤色のワンピースを掴んで泣いていた。ワンピースを着ているのは、しかし母では無かった。見知らぬ初老の婦人が、優しそうな目に困惑を浮かべてじっと加奈子を見つめていた。
すると突然、婦人の後ろからあの灰色の男が現れた。男は言う。
「探しているんだ、君を」
加奈子はそこで飛び起きた。今度は泣いていなかったが、代わりに、驚いたからだろう。息が上がっている。夢の中の灰色の男は妙に切羽詰まった、悲しそうな眼をしていた。なぜだか悪い人間に思えないのが不思議だった。
三か月間の研修はあっという間に過ぎ去った。配属発表を受けて、山崎さんは本社勤務にならなかったことを嘆いていたが、加奈子は実家から通いやすい営業所に配属されたことを嬉しく感じた。土日があければ、いよいよそれぞれの仕事が始まる。研修の終わりと、前途を祝して人事部の研修担当の人たちが開いてくれた打ち上げ会でおいしい羽根つきギョウザに舌鼓を打っていたら、いつの間にかすっかり遅くなってしまった。そのまま朝まで三次会、四次会へと繰り出すチームと別れて、加奈子は一人、駅へ向かう。
すると、商店街の真ん中で突然「加奈子、」と声をかけられた。