昨日の転倒で、足を捻挫した雅美は、今日はどこかに行く気もしなかった。
――今日はここで、ゆっくりするか……。
転倒事件の話の後も、取り留めのない話を母としていると、一人の客が喫茶店に入ってきた。何気なく、入り口に視線を向けた雅美は、「あっー!」と、客を指差し、声を上げた。
突然の雅美の絶叫に、喫茶店の視線が一旦、雅美に集まる。そして、次の瞬間、雅美が指差す方向に向かった。
喫茶店中の視線を想定外に集めた客は、何かあったのかと一瞬たじろぐ。だか、すぐ笑顔になり、雅美に近づいてきた。
「昨日は災難でしたね」とペコリと頭を下げた客は、昨日、雅美を助けてくれた男性だった。
雅美は言おうとする言葉が音にならない。口だけが、パクパクと動くだけだった。
「もしかして、貴方が昨日、うちの娘を助けてくれた方かしら?」
事態を察知した母が、男に声をかけた。
「助けたというほどのことではないんですが……」
「娘がお世話になりました。ほんと、間抜けな娘で……」
母は立ち上がると、深々と頭を下げた。
「間抜けっ!?」
ふいに声が戻ってきた。同時に雅美は母を睨む。
「そうよ、間抜けよねー、ハイヒールで全力疾走なんて。ねっ?」
母は首を傾げ、男に同意を求めている。
――初対面なのに馴れ馴れしい!
雅美は心の中でツッコミを入れると、「昨日はありがとうございました!」と、立ち上がり、深々と頭を下げた。
「いやいや、そんな……」
二人が深々と頭を下げるのに恐縮し、男は手を左右に振った。そして、恥ずかしげに、視線を下に落とす。
次の瞬間、「あれっ?」と、男はテーブルの上のカードに釘付けになった。
カードを取り上げると、「これは……」と唸る。
「あらっ、ご存知?」
母が言った。
そのカードは、前衛芸術家・高田健(たかだけん)の抽象画が載ったポストカードだった。世間的に大人気の芸術家ではなかったが、母が大好きな画家だった。母は彼の描く抽象画をモチーフに色々なものを編んだ。高田健の抽象画をイメージした色彩、構図で模様を付けられた編み物は、独特でエレガントなものになっていた。
雅美を助けてくれた男性は、大橋和也という大手メーカーに勤める営業マンだった。雅美より5歳年上。一ヶ月ほど前に、異動でこの街に引っ越してきたらしい。聞けば、雅美の家から5分ほどのアパートに住んでいるそうだ。絵画が好きで、彼も高田健が好きとのことだった。メジャーとは言い切れない高田健の絵がテーブルにあるので、驚いたそうだ。