「おばあちゃんより、少しだけ先輩の時計です。毎日ネジ巻きを少しだけしてるの。思いっきり巻いたら、ネジが切れてしまったことがあって、直してもらってからは、毎日巻くようにしてるんです。少しだけね。」
懐かしい人に再会した時のように、なぜだか会話がはずんだ。
「ごゆっくりどうぞ。」
そう言うと、またキッチンへと戻って行った。
その後ろ姿に、目の前に置かれた紅茶の湯気と、スコーンに描かれたウサギの焼印を重ねた。
温かい時間がゆったりと流れる、春の日の出来事だった。
ある夏の日、なみはまた、紅茶屋さんへと出かけた。
三十度越えの猛暑が続き、その日も夏の太陽が真上から照らす、とても暑い一日だった。
住宅街に入って細い路地を左に曲がり、しばらく行くと目に止まる、紅茶屋さんの焦げ茶色。店の引戸をゆっくり開けると、ガラガラといい音がした。
焦げ茶色の音は、いつもこのガラガラから始まり、敷居をまたいで中に入ると、汗だくの体が丸ごとホッとした。
灼熱の太陽から逃れて、大きな樹の下にすっぽりと入った時のような、そんな感覚に似ていた。
足元を見ると、コンクリートの土間床だった。
丸い石が埋め込まれた、そのコンクリートのモノトーンで、体がクールダウンして行くようだった。
「いらっしゃい。」
「こんにちは。また来ちゃいました。」
「毎日暑いですね、お好きな席へどうぞ。」
その日も、一番奥にある窓際の、ミシンテーブルの席に座った。
なみの他には男性の客がひとり、キッチン近くの、小さなソファー席に腰掛けていた。
店のキッチンは、白いタイルがぐるりと壁を覆い、窓から入る日の光を、さらに明るく作り出していた。
外に出る勝手口の扉にはすりガラスをはめ込み、低い場所からも日が入るようにして作られたその仕事場は、一日が終わる時刻まで、やさしい光が届いていた。
客席とキッチンの境には、半間ほどの木製の板が立っていて、はめ込まれた大きなすりガラス越しに、キッチンの明かりの下で作業する姿が、シルエットになって揺れていた。
「ともかさん。」
男性客が、女性を呼んだ。
「このルバーブのタルト、美味しいですね。」
「ありがとうございます。」
「また持って来ますよ、軽井沢からね。おかげさまで、よく育ってますから。」
「いつも、ありがとうございます。」
そんな会話を聞いていたなみに、
「今日は、何にします?」
「ともかさんって、言うんですねお名前。私はなみです。今ちょっとお話聞いていて、ルバーブのタルトって、どんなタルトなんですか?」