世の中は、音で出来ている。
そんな風に思ったのは、この街に来てからだ。
青木なみ、フリーランスのフォトグラファー。
桜の季節になると、ある小さな街を訪れるようになり、はや五年の月日が過ぎた。
むかし寺町と呼ばれたその街は、夕刻になると寺の鐘がなり、家に走って帰る子供たちの足音が、路地裏に響いていた。
そんな夕刻の音も、今では、懐かしい記憶の音となったという。
寺の数だけいやそれ以上に、多くの桜と出会うことが出来るその街を、訪ねることになったきっかけは、寺町に残る鐘の音の話をしてくれた、一軒の「紅茶屋さん」との出逢いだった。
五年前の春、桜と寺の風景に誘われるようにして、カメラを持つと電車を乗り継ぎ、なみはぶらりと街を訪れた。
住宅街の中に点在する寺の敷地内には、何処にもみごとな桜の木があって、その枝振りの存在感に圧倒されながら、花びらの淡い色彩の連続に、なみは心を休ませながら、時折シャッターを切った。
ゆっくりと歩を進めながら、細い住宅街の道を折れ、しばらく行くとある場所だけ、何やら色が違っていた。
歩を止めるとその場所には、古い日本家屋が建っていた。
二階建ての木造家屋の焦げ茶色は、なんとも落ち着きのある佇まいだった。
丸ごと土の色に見えた建物は、その地にまるで根をはった、生き物のように見えた。
入り口の前には、金柑やユーカリ、ゼラニュームやレモンの小さな木々が植えてあり、その隣には「紅茶屋さん」と書かれた、小さな看板が立っていた。
一間ほどの引戸に手を伸ばし、スライドさせながら戸を開けてみると、その生き物はまるで瞬きをするかのように、なみを家屋の中へと迎え入れた。
「いらっしゃい。」
奥から、女性の声がした。
英国アンティークの食器が並ぶ、ガラス張りのショーケースを手前にして、敷居を数段上がった向こうには、小さなテーブルと椅子が並んでいた。
左奥のキッチンから出てきた女性は、なみを見ると、
「お好きな席へ、どうぞ。」
柔和な笑顔でそう言うと、またキッチンの中へと消えて言った。
客席の正面にある壁は、一面が大きな窓で、所々はめ込まれたステンドグラスからは、柔らかい光が差し込み、ガラス窓の向こうには、黄色い花の咲いている庭が見えていた。
窓際の席に座ると、なぜだか座り心地がしっくり来た。
よく見ると、そのテーブルは、足踏みのミシンだった。
そして周りのテーブルを見渡すと、三台の足踏みミシンが並んでいた。
SINGERのロゴを持つミシンを脚にして、その上には木製の天板が置かれ、どれも二人掛け、四人掛けのテーブルになっていた。