妻の仕事は幼児向けのスポーツインストラクターだ。電車で三駅離れた隣町の幼稚園で週5日、5~6歳の子供達に鉄棒や跳び箱、ダンスなんかも教えている。
俺は小さい頃から運動が苦手で身体を使って何かをするより知恵を絞って自分に出来ることをするのが好きだった。勉強する事には苦痛を感じず、外で遊んで来いと親から言われる事の方が苦痛だった。
実家は商店街で八百屋を営んでいる。商店街の子供はみんな似たり寄ったりの環境で育った。長屋のように繋がった店の裏側は親戚の家を行き来するような感覚でいつでも出入り出来る裏口が並んでいる。しょっちゅう誰かが遊ぼっと誘いに来る。よちよち歩きだった弟がいた頃は、弟の面倒を見るから遊べないという言い訳をその当時の俺は最大限の武器にしていた。しかし弟が幼稚園に入った頃、両親は小さい弟にも商店街から出なければ外に行ってもいいというお告げを出した。外に出たがらない俺に早々と見切りを付けた弟は、隣に住む俺の同級生の後を追いかけるように遊び出した。その度になんでお前は外で遊ばない!と強い口調で父に言われる事が何よりも嫌だった。そんな事を言われるのは長屋のような商店街の息子として産まれた俺の因果だと恨めしく思っていた。やがて中学生になる頃、俺の成績がすこぶるいいことに両親が理解を示し、机に向かう俺を責めなくなった。そんな俺がシステムエンジニアという今の仕事にやりがいを感じている事は至極当たり前の流れだと納得している。システムが不具合を起こすと早朝であれ夜中であれ呼び出しの電話が掛かってくる。持ち帰りの仕事も多く家で夜中までパソコンに向かう事も少なくはない。しかし妻は文句一つ言った事がない。俺の仕事に理解を示してくれている。だから俺も妻が選んだ(俺には出来ない仕事)に理解を示したい。
結婚前、全く違う趣向を持った俺を妻は(自分の知らない世界を知っているあなたって凄い!)と言ってくれた。お互いの趣向を交互に試してみるデートは毎回楽しく笑顔が溢れていたように思う。しかし幸太郎が産まれ3歳を過ぎた頃から二人の間に流れる状況は微妙に変わって来た。
俺のいない時間を幸太郎と二人で過ごす妻は、時間を見つけては公園へ出向き外で遊ぶ事を習慣付けた。俺が休みの日には車でわざわざ山の中のアスレチックへも行った。運動神経抜群の妻は幸太郎とドンドン先へ進み、俺はターザンのようにして縄に捕まって滑り降りるアスレチックで腰が引けてしまい二人から大きく遅れをとってしまう。俺よりずっと先に居る二人が遠くから声を張って俺を呼ぶ。それでも妻が幸太郎の手を取り三人で過ごす休日は楽しかった。俺的には多少の無理はあったが、幸太郎が幼稚園に通い始めるまで家族三人この状況に幸せを感じていたと俺は思っていた。
しかし、余儀なく状況はまた変化する。
妻のいない最初の土曜日、隣町にある実家へと向かった。弟夫婦が継いだ八百屋はインターネット販売や無農薬農家と提携するなどして繁盛していた。長男なのに家業を継がなかった俺には敷居が高い実家だったが、子供が出来ない弟夫婦も、初孫を授かった両親も手放しで喜んでくれる。この家の長男としてやっと自分の居場所が出来たようにさえ思えた。