私は苦笑いすると、向かい側に座り駒を並べ始めました。
「僕がおっちゃんに勝ったら、そのホッピーを飲んでもいい?」
おっちゃんがいつも飲んでいた瓶には『ホッピー』と印刷されていました。口に出してみると、幸せな気分になれる響きでした。
「魔法の黒い水をか? もちろん、ワシに勝ったらいいで。まあ、無理な話だけどな」
おっちゃんはわざとらしく、グラスに口をつけました。
「なあ、坊主、将棋大会に出てみんか?」
駒を並べ終えたおっちゃんが言いました。
「え? 僕はここでおっちゃんと将棋ができればそれでいいよ」
それは私の正直な気持ちでした。
「阿呆。そんなんじゃ、わしには一生勝てへんで。上達には実戦が一番なんや」
大会は毎年10月に、団地内の公民館で開催されるとのことでした。
「目指すは優勝や。まずは、この団地内で一番になれ」
「なれるかな」
「なれるに決まってるわ。それにな、大会で勝つと大きな自信がつく。坊主に一番必要なやつや」
おっちゃんはかすれた声で笑いました。
C
「あっちゃん、あなた、重富酒店で何してるの?」
夏休みもあと数日となったある朝、母親が言い出しました。
「え、別に。駄菓子を買っているだけだよ」
私は平静を装いました。
「他には?」
「他? 他にはないよ」
「嘘おっしゃい。変なおじさんと将棋をやってるんでしょう?」
「変なおじさんじゃないよ!」
私は思わず反論してしまいました。
「トシくんのお母さんが教えてくれたのよ。あなたが毎日、重富酒店に入り浸って汚いおじさんと何かやっているって」
「おっちゃんに将棋を教わっているだけだよ」
観念した私は母親から目線を外しました。
おっちゃんと将棋を指していることをずっと黙っていたのは、私の中でどこかうしろめたさに似た気持ちがあったからかもしれません。
「とにかく、もう行くのはやめなさい」
母は腰に手をあてながら、言いました。
「なんで?」
「なんでって、あそこはお酒を飲む場所なのよ。子供が行っちゃいけない所なの」
「お酒じゃないよ。魔法の黒い水だよ」
「何わけのわからないこと言ってるのよ。とにかく、今日から行っちゃダメよ。それに、宿題は大丈夫なの?」
夏休み中の母親は不機嫌な事が多く、私はうなずくことしかできませんでした。
もちろん、素直に従うつもりはありませんでした。夏休みが終わり、二学期が始まっても私の重富酒店通いは続きました。帰宅するとすぐに家を飛び出していく私の姿を、母親は訝しげな表情で見ていましたが、何も言ってはきませんでした。