男は不思議な作戦をとりました。王様の守りに手をかけず、最下段に置いた飛車を突然大移動させて、私の玉頭に襲いかかってきたのです。初めて見る戦法を繰り出された私は動揺しミスをしました。そこから飛車先を突破され、万事休すでした。
「負けました」
私は頭を下げました。完敗でした。私は攻めることができずに一方的に押し切られたのです。
「残念やったな。ほな、お菓子はおあずけや」
私は悔しさで顔が引きつりました。
「なんだー。メロンソーダ飲みたかったのに」
たーちゃんの悪意のない一言がそのときの私にはひどく堪えました。
「ごめん」
私は消え入りそうな声で言うのが精一杯でした。
「坊主の将棋はあまちゃんや、所詮はガキの将棋なんや」
対局後にそんな無慈悲な言葉を投げかけられたのは初めてでした。そのときの私は、きっと涙目になっていたにちがいありません。
「僕、帰る」
今にも泣きそうな姿を友人に見られたくなかった私は、逃げるように重富酒店を飛び出していったのです。
B
それ以来、私が重富酒店を避けるようになったのは無理もないことでした。
かっくんやたーちゃんから行こうと誘われても、何かと理由をつけて断っていました。あの男との対局の記憶が甦ってきたからです。
ですが、お盆の日のことです。運悪く私は遊びに来た親戚のためにお酒を買ってくるよう母親に頼まれてしまったのです。
商店街の多くの店がシャッターを閉じている中、重富酒店は営業中でした。意を決して恐る恐る引き戸を開けると、果たしてあの男がいるのでした。私は思わず戸を閉めようとしました。
「おっ、坊主、久しぶりやん!」
男に見つかってしまいました。私は自分のタイミングの悪さを呪いながら、渋々足を踏み入れました。
「相手がいなくて暇してたんや。坊主、やろうや」
テーブルの上には、将棋盤とあの黒い飲みものがありました。
私は男と目を合わせず、首を横に振ると、黙って日本酒の銘柄が書かれたメモを店主に渡しました。
「なんや、負けたからいじけてんのかいな。マスター、この子にメロンソーダでも飲ませてやってくれ」
「僕、いらないです。すぐに帰らないと」
私は男の方を見て、はっきりと言いました。
「いいか、坊主。お前にはセンスがある。だから、この前は厳しいこと言ったんや」
私は男の言うことを無視して、店主に代金を払うと、日本酒を抱え帰ろうとしました。
「殺生なやっちゃな。そんなんやと女にモテへんで」
「別にモテなくてもいいです」
男の軽妙な語り口のせいで、私は思わず答えてしまいました。
「ほな、せめてメロンソーダだけでも飲んでいきーな」