部屋を出たゆきこは急いで階段を降りた。金属製の階段を急いで降りる音がカンカンと響いた。何かへんな感じがしたのですぐに追いかけたが、前の通りでタクシーを拾ったゆきこは鶯谷の駅とは反対の方へ向かった。ゆきこは一度も振り返らなかった。
それがゆきこと会った最後だった。一週間ほどして、何の連絡もなく電話をしても出ないので、ゆきこが住んでいる目白の女子大生マンションに行ってみた。何度が行ったことがあるので顔見知りだった管理人のおばさんに、ゆきこのことを聞いた。
「先週、宮崎へ急に帰られましたよ。連絡もないので心配しているんですよ。」
ゆきこと仲の良かった高校の頃の同級生の女の子が、同じ女子大にいてバスケットをやってたので、学校に会いに行って聞いてみた。
「知らなかったのまあちゃん。」
そのころには彼女も、私とゆきこの仲をよく知っていたので、私のことを「まあちゃん」と呼んでいた。
「お父さんが、仲間内の建設会社の保証人になり、かなりの額を払わなければならなくなって、結局どこかへ一人で逃げてしまったらしいの。噂では死んだかもしれないって。ショックでお母さんは寝込んでしまうし、とにかくゆきこは宮崎へ急いで帰ったみたい。その後連絡もないので、みんな心配しているんだけど。」
「何も知らなかった。連絡しても電話にも出ないから。とにかく一度宮崎へ帰ってみるよ。」
帰ってすぐに彼女の家に行ってみたが、扉はすべて閉じられていた。会社には人の気配すらなかった。
隣の家の呼び鈴を押して、中から出てきたおばさんにゆきこの家の様子を聞いた。
「たいへんだったわよ、社長はいなくなってしまうし、奥さんはショックで心不全になり、それからたった一週間ほどで亡くなったのよ。お葬式も、本当に身内だけ、というよりも、ゆきこちゃんと妹のみちこちゃんだけの寂しいお葬式だったわ。その日のうちに納骨も済ませて、二人でいなくなってしまったのよ。」
ゆきこの人生が、ここ一カ月でひっくり返ってしまったのに、私は何も知らなかった。そして何も知らせずに、妹を連れてゆきこはいなくなっていた。親戚もほとんどいないため、行方はわからず、その後も私はゆきこを探したが全く見つからなかった。
そして、四十年も経った今、奈良のおゆきで飲んでいる。
「たぶん、お母さんは私の同級生のゆきこちゃんだと思うんだよね。ここで暮らしてたのか。随分探したのに見つからなかったんだ。どうして奈良に来たのかお母さんから聞いているの。」
「お知り合いだったんですか。母は昔のことは言わない人だったから。吉川さんに聞いた話では、上野広小路の飲み屋で働いていた母と知り合って奈良に連れてきたと言ってました。普通のお店じゃなくて、少しいかがわしい店だったみたいなんですが、吉川さんもそのことはあんまり言いませんでした。ただその頃母は私と実の妹を連れていて、食べるのがやっとだったそうです。お母さんの妹は奈良に来てすぐ家出して、全く連絡が取れなくなったそうです。」
上野に居たのか、下谷から歩いて十分だ。そんな近くにいて、なぜなにも知らせてくれなったんだろうか。小さな娘と妹を連れて、夜は男に媚びを売る商売を続けたゆきこは、私に会いに来ることはなかった。意地っ張りだったゆきこの、弱みを見せたくないという気持ちだったのかもしれない。