「まあちゃん、一緒に東京に行けるといいね。」
私も最初は医者を目指していたが、現実的には国立の福岡か熊本の工学部か農学部がやっとだった。
「今の成績じゃあ東京は無理かな。福岡か熊本へ行くかな。」
私がそう言うと、ゆきこは少し悲しそうな顔をした。
私たちは高校三年夏休みのはじめに、親に嘘を言って二人で鹿児島に旅行をしていた。私もゆきこもそうしたことは初めてだったが、互いを好きだということはその時強く認識していた。
結局そうしたことに気持ちが傾き勉強に身が入らなくなった私は、成績が落ち始め、三年の夏休みの終わりころには工学部、農学部でも国立は危ない状況になっていた。
私は東京で入れそうな大学を探した。国立理科系のクラスにいる自分自身のプライドから、有名な大学に行きたかった。学費の安かった早稲田を受けようと考え、数学が受験科目にあった商学部に合格することができた。生活費はバイトで稼ぐからと親を説得した。
大学に入学することになり、私はおばが住んでいた台東区下谷の古びたアパートに、ゆきこは目白の当時できたばかりの女子大生専用のマンションに住むことになった。裕福な家庭の二人姉妹の長女だったゆきこは、お金に困ることはなく、貧乏教員の息子で姉が福岡の国立大学の学生だった私には、このアパートが限界だった。それでなくとも学費はかなり無理して出してもらい、生活費はおばの家の近くの小さな菓子製造会社のバイト代で賄った。
アパートは燃料店の二階で、便所は共同、風呂は近くの風呂屋へ、窓ガラスには隙間があり風が吹き込んでくるようなところだった。金属製の階段はだれか通るたびにカンカンという音が響いた。
酒を飲む金もなかったが、そのころの東京の下町にはホッピーという焼酎をホッピー液という炭酸水のようなもので割った、すごく安い酒がありそれをいつも近くの居酒屋で飲んでいた。
ゆきこは比較的余裕があったが、下谷に来ると面白がってホッピーを飲んでいた。つまみは煮込みと決まっていた。私のバイト代が入ると、普通の煮込みが牛すじ煮込みになり、ゆきこはニコニコしながら結構飲んでいた。時には浅草まで歩いて遊びに行ったが、飲むのはやはりホッピーだった。今のようなホッピー通りも黒ホッピーもなかったが、楽しく飲めた。その頃の唯一の贅沢だった。
ゆきこは一週間に一度は私のアパートに泊まりに来ていた。
大学一年の冬、二月の寒い日の夜だった。ゆきこが突然アパートに来た。いつもは電話して、いるかどうか確かめてから来ていたのに、その日は何の連絡もなく突然やってきた。
「食事はまだでしょう、カレーを作るわ。」
私はゆきこが作るカレーが大好きだった。というよりも、ゆきこはカレーしか作れなかったが、ゆきこのカレーには普段食べられない牛肉がたくさん入っていた。食べ終わるともう、10時過ぎだったが、「今夜は帰らなくちゃ」と言って帰っていった。
いつもと様子が違うので「泊まっていけば」と声をかけたが、「今夜は帰る。」と珍しく強く言った。「駅まで送るよ。」「送らないで。」