2016年11月初旬の土曜日の夕方、奈良町にいた。
私は東京に本社がある中堅証券会社の取締役営業部長、中田雅弘59才、来月は還暦だ。金曜日大阪での関西地区支店長の営業会議の後、しこたま飲んで大阪に泊まったが、朝になって急に奈良の阿修羅像が見たくなった。
大阪駅から、JRで奈良へ向かった。奈良駅は思っていたよりも新しく近代的で、古都奈良というイメージはなかった。駅からはタクシーで真っ直ぐに興福寺国宝館へと急いだ。
興福寺の国宝館で阿修羅像を見て、猿沢池の周りを池面に映る五重の塔を眺めながら歩き、奈良町のアーケード街に入り、昔風の家並みが残る町並みを歩いていると奈良の大吟醸の試し飲みの店があった。試飲ではなく、試し飲みだ。
奈良は高校の修学旅行以来、ほぼ四十年ぶりだ。奈良にすごく興味はなかったが、興福寺阿修羅像には何故か縁があった。2009年、上野の国立博物館で行われた「国宝阿修羅展」で最初に見た。この展覧会は取引先の会社が協賛していたので、社長がチケットを大量に買ってしまい、配り損なった分が我々にも回ってきて、嫌々ながら見に行ったものだ。美術とかにはほとんど興味がないのに、静かに立つ品格のある阿修羅像には強く魅かれた。
興福寺では、東京で行列をして見た展示物の阿修羅像ではなく、手が届きそうな距離で、まるで生きて呼吸をしているような姿をゆっくりと見ることができた。昼過ぎに入館して、気がつくと閉館の五時まで国宝館にいたことになる。
立ち飲み屋には、東京でずっと働いていて数年前に奈良に帰ってきたという陽気なカウンターのお兄さんがいた。お兄さんといっても四十くらいだろうか。勧め上手で冷えた奈良の大吟醸をコップに三杯ほど飲んだが、なんとなく飲み足りなかったので、そのお兄さんに聞いた。
「どこかこの辺りで、美味しいお酒が飲めるお店はないかな。お兄さんがいつも行くような気楽な店がいいんだけど。綺麗な女将と白木のカウンターが有るともっといいね。」
「すぐ近くに割と安くて、話好きな女将がやっている小さな居酒屋はありますよ。ここを出て左に行くと、横丁におゆきという赤い提灯がかかったお店があります。ホッピーののぼり旗も出ていますから、すぐわかります。女将さんは、まさこさんて言うんです。」
「こっちにもホッピーはあるの、東京の物だと思っていたけど。」
「私も最初、おゆきでホッピーのあの独特の字ののぼり旗を見た時はびっくりしました。東京では江東区にいたので、ホッピーは当たり前だったんですが、奈良ではあまり見ないですから。
実は証券会社で、債券のデイーラーをやってましたが、全然ダメでこっちに帰ってきました。一日中相場を見ていると、夕方にはどっと疲れが出て、飲まずには家に帰れなかったですね。それもホッピーの中を何度もお代わりして、随分深みにはまりました。」
私は名刺を出した。