「お客さんは役員さんですか、偉いんですね。私、知ってますよこの会社。結構ノルマとかきついところですよね。」
「今は向かいほどじゃないよ。江東区にホッピーはよく似合うよね。私は台東区だったんで、もっとよく似合うかな。」
「おゆきの牛すじ煮込みは美味しいですよ。女将のお母さんが東京からホッピーと牛すじ煮込みを持ち込んだみたいです。」
時間は6時を少し回っていた。
道に出ると、店はすぐにわかった。横丁の二軒目の古い店で、おゆきと書かれた大きな赤い提灯がぶら下がっていて、ホッピーの小さなのぼり旗も出ていた。 中に五人ほど座れるカウンターと、四人掛けのテーブルが二つあった。その一つで小学四、五年生ぐらいの女の子が教科書を広げていた。
女将の顔を見てびっくりした。私の二つ上の姉にそっくりでとても他人とは思えなかった。。丸顔でおでこが広く、やさしそうな顔をしていた。やすぼうが言ってたように美人ではないのだが、四十くらいで感じは良かった。
「お客さん、今やすぼうから電話がありました。カウンターにどうぞ。ヒロコちゃん、勉強は上でやりなさい。お客様だからね。」
女将は座っていた女の子にやさしくそう言った後、何故か私の顔をしばらくじっと見ていた。
「いいよ、おじょうちゃん、せっかく勉強してるんだから。」
「ヒロコちゃん宿題が終わったら上に行きなさいね。」
女将は念を押すように言った。
「ホッピーののぼり旗があったね。ホッピーやってるんだ。関西ではあんまり見ないよ。とりあえずホッピー、つまみはやすぼうが勧めてくれた牛すじの煮込み。」
すぐにホッピーと牛すじの煮込みが出てきた。牛すじの煮込みは関東風だった。ホッピーをぐっと飲み干してから、女将に聞いた。
「女将はまさこさんなのに、お店の名前はおゆきなんだね。」
「私のことは、まあちゃんと呼んでください。お店の名前のおゆきは、母の名前なんです。ゆきこ、幸福の幸と子どもの子と書いてゆきこ、さちこじゃないからねと言うのが母の口癖でした。」
このお店は母が四十年近く前に開いたんですよ。ホッピーと牛すじの煮込みはそのときからです。」
勉強していた女の子が私に声をかけて二階へ上がって行った。
「お客さん、どうぞごゆっくり。」
とても小学生とは思えない落ち着いた愛想の良さだった。
「そういえば同級生に、ゆきこちゃんて子がいたな。ずっと昔の話だけど。それでお母さんはどうしているの。」
「去年の七月に、乳癌が再発して亡くなりました。今年還暦を迎えるはずだったんですが。」
「今年六十才、私と同じ年だ。まだ若いのに、かわいそうだね。」