「生きる上で、楽しみや好きなことがあるというのは大切です」
そう喜んでいた矢先、事態は急変した。それは退院から八ヶ月が過ぎた頃だった。
デイサービスから帰宅後、近所の道路で転倒して今度は右大腿骨を骨折した。 「散歩に行こうと思った」と病室のベッドに横たわり、小さな声を絞り出した
伸樹さんの顔は悲しそうだった。そして、それ以上は何も語らず、白く無機質な天井をじっと見つめた。
「自宅での生活は難しいんじゃないですかね。一人暮らしですよね?今後について、娘さんとケアマネさんで話し合って考えた方がいいのではないですか。そもそも本人さんの意欲がない。前向きに生きる意欲が」
主治医が電子カルテに目を向けたまま淡々とした口調で言った。
「残念ですが、施設も検討しないといけませんね」と、入院から一ヶ月ほど経った頃、彩乃さんがもらした。
「では、介護度の見直しをしますね。手続きを進めます」
もちろん、彩乃さんも僕も退院すればこれまで通り自宅で生活を送るものと信じていた。しかし、残念だが今の伸樹さんの意欲で一人暮らしが難しいのは明らかだった。
「あとは意欲的にリハビリをするしかないんですが……なかなか難しいですね」
リハビリ担当の理学療法士もお手上げだった。
見直しの申請をした介護度は、要介護4という結果だった。「せめて自宅近くの施設をお願いします」という彩乃さんの思いから、近隣の施設をいくつか選定してパンフレットを取り寄せた。もちろん、このことを伸樹さんは知らない。
「施設のこと、父に伝えて頂けませんか……娘の私が言うと強く拒まれそうで……」
彩乃さんの表情、声の様子から、本当はその事実を自らの口で伝えるのが辛かったのだろうと思う。「仕事が忙しくて」という理由で、彩乃さんが病院へ行く足は遠のき始めていた。
これまで自宅で改善傾向にあった伸樹さんの状態が再び悪化し、改善の兆しが見られないことが彩乃さんには受け入れ難い事実だった。
バッグに施設のパンフレットを詰め込み、いつもより重い気持ちで病院へと向かった。
「こんにちは」と、閉ざされたカーテンの向こう、白い天井を見つめるであろう伸樹さんに声をかける。しかし、これまでに返事があったことはない。いつも「開けますね」と断りをいれ、隙間から覗き込むようにして、そっとカーテンを開けるのだった。
しかし、そこに伸樹さんの姿は無く、ベッド上には乱雑に置かれた掛布団があるだけだった。
「面会ですか?」と、僕に気付いた看護師が声を掛けてくれた。
「ええ、検査か何かですか?」
「この時間はリハビリへ行かれてますよ」
これまでリハビリを強く拒んでいると聞いていたので、僕はその言葉に耳を疑った。
「最近、とても意欲的になられてますよ。リハビリが無い時もご自身で体操されてます。あまり無理なさらないようには言ってるんですけど」