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ホッピーが来るまでの他愛ないやり取りですら、私には新鮮だった。酒場で見知らぬ人と話すことなど初めてだったし、そもそも会話を楽しむなんてこと自体が久しく無かったのだ。
ホッピーのセットが目の前に置かれたので、私は瓶を手に取った。
「あっ、それは願い事をしてからですよ。まずは焼酎に願いを溶け込ませてください。それからホッピーを注ぎカクテルを作るような気持ちで丁寧に混ぜてゆくのです。この行程は大事ですよう」
「こりゃ失礼。では」瓶を置き、男に倣って柏手を二回打つとなんだか楽しい気分になってくる。さて、何を願えばいいかな。問いかけてみたが、冷めた軟骨も、つくねも、つまみ達は皆黙ったままであった。なんだこんな時に。仕方ない、やはり健康面の願いにしようか……。そう思ったのも束の間、突然、強い衝動が胸の奥で弾けた。そしてその衝動に操られるかのようにして私の口はぎこちなく動き始める。
「つ、妻に。いつかまた、出逢えますように……」
言葉にしてしまった途端、妻の死に際の顔が、誤魔化していた感情が、現実のやるせなさが一気に押し寄せてきた。乾いたかさぶたがめくれていくようだ。孤独や寂しさを覆っていた赤黒い膜がぺりぺりと。剥き出しにされ、めまぐるしい感情の奔流に飲み込まれ呆然となった私は、祈るように手を合わせた格好のまま、手だけを震わせて硬直していた。
「奥さん、どうされたんですか」彼の声にはっとして我に返る。心臓が脈打ち、息が詰まりそうになるのをどうにか堪え、ゆっくりとそちらを向いた。
「いえ、もうだいぶ前に亡くなったんです。ただこう、ふとした時に、思い出すというか後悔というか」
「後悔、ですか」
「ええ。病院でね、最期の時に、握ってた私の手を妻が凄い力で掴んだんです。私の目を虚ろに見つめて。その瞬間、ああ今『愛してる』と言わなければ、と唐突に思ったんです。今までそんなこと一度も言ってやれなかったからかもしれません。それで口を開いたんですけどね、あ、から先がどうしても、どうしても言えなかったんです。恥じらってる場合などではないのに。結局、ありがとう、またな。なんて、偉そうな事しか言えなくて。そしたらね、妻がふっと微笑んだんです。少しだけ微笑んでから、死んでいったんです。その顔が忘れられなくて。死に際に微笑んでくれた彼女の優しさ、強さに比べて自分はなんて臆病な弱い男なんだろうと、何度も自分を恨みました。……その時の事がね、私にとって未だ心残りなんです。天国でも地獄でも、来世でもなんでもいいからもう一度彼女に会って謝りたいのです。謝って、今度こそ、思い切り『愛してる』と言ってやりたいのです」
私の話を、二人は何も言わず聞いていた。私は二人のその神妙な顔つきを見て冷静さを取り戻すと同時に、強い罪悪感に駆られた。
「ああっ、ごめんなさい。こんな話を見ず知らずの方に長々と。しんみりさせてしまって。……あのせっかくなので、乾杯してくださいますか」いたたまれなくなり、いそいそとホッピーを注ぎマドラーでかき混ぜた。
叶います。
彼はぼそっと呟くと私の目を強く見つめた。