そう言って、げんさんはガハハと笑った。
大阪の広告代理店に入って5年目。プランナーとして全く芽が出ず、お荷物扱いだった私に、『全国展開する大型スーパーのプロモーション』という大きなプレゼン案件が回ってきたのは、担当者の急病による代役という形でだった。このチャンスをものにすべく、私は持てる力の全てを注いだ。連日会社に泊まり込んで企画を練り上げ、営業には無理を言って利益をギリギリまで抑えた見積もりを用意し、デザイナーには何十枚ものイメージボードを作成してもらった。
準備万端で迎えた横浜でのプレゼン。前泊で乗り込んだ私には、自分でも気づかない気の緩みがあったのだろう。中華街でコース料理を堪能し、ホテルの部屋で最後のプレゼンのリハを行った私は、連日の疲れもあって、ぐっすりと眠りに落ちた。翌朝、大阪から始発の新幹線で来た同僚からの怒りのモーニングコールで目を覚ますまで……。
会場まで走りに走って、ギリギリ開始時刻に間に合ったものの、そんな精神状態でまともなプレゼンが行えるわけもなく、結果は聞くまでもなかった。
同僚からの視線に耐えられなくなった私は会場で彼らと別れ、横浜の街をあてもなく彷徨った。途中、雨に濡れた髪は、セットが崩れて垂れ下がり、私はこれまでと同様、髪の隙間から見える風景を呆然と眺めた。
亡霊のような姿を見て、何か感じたのだろう。『居酒屋 げん』ののれんをくぐった私を、大将と女将は優しく迎えてくれた。ちょうど客も他にいなかったこともあり、自分がいかに仕事ができないダメ人間かを、自虐的に延々と語る私に、二人は笑顔で付き合ってくれ、励ましてくれた。大将も、店の屋号は自分の名前の『源』から取ったことや、夫婦二人でずっと店をやってること、野毛の街の魅力などを、豪快な笑い声を混じえて話してくれた。
そしてこの時、げんさんがおごりだと出してくれたのがホッピーだった。初めてのホッピーに私が戸惑っていると、げんさんは、その飲み方から種類、歴史までを丁寧にレクチャーしてくれてこう言った。
「ホッピーはそのまま飲んでももちろんうまい。焼酎、ワイン、ジン、梅酒、ソーダ、何と混ぜてもこれまたうまい。どんなものでも受け入れてくれる、優しい飲み物なんよ」
それはまるでこの店の、そして二人が醸し出すあたたかい空気とも重なるようで、ささくれ立ち、乾き切っていた私の心にも、確かなうるおいが広がってくるようだった。
「じゃあ、乾杯や!」とげんさんはジョッキを手にした。
「ホッピーでハッピー!」
「え?」
「またー、この人の口ぐせなんよ」と女将は笑った。私もジョッキを掲げて続いた。
「ホッピーでハッピー」……
「ホッピーは作り方もビールとほぼ同じやけど、アルコール分は0.8%しかないから、カテゴリーは酒じゃなくて、ビールテイストの清涼飲料になるんや」
私は、げんさんの言葉を反芻するように、若い二人に語りかけていた。二人は唐揚げを肴に、初体験のホッピーを楽しんでいる。彼女の方は早くもホッピーのビンが空になりかけていた。
「女将さん、ソトおかわり!」と私はカウンターの中へ告げた。
「はいよ、ソトね」アナゴを揚げ終わり、皿に盛っていた女将が返す。
「ソト?」彼女が不思議そうな顔で私を見た。