ピエロのイラストが描かれた「野毛ちかみち」とある看板を見ながら、地下への階段を降りていく。地上からの風が奥へと吹き抜け、少し体が揺れた。3月下旬の宵、頬をかすめる空気はまだまだ冷たい。ダウンを着てきて正解だった。私は肩にかけたカバンと、細長いアジャスターケースを掛け直した。
階段を降り切って進むと、両脇に立ち飲み屋らしき店がいくつか並んでいた。記憶の中の風景を探るが出てこない。「もつ」と大きく書かれたのれんに少し心が動いたが、今日の目的はここではない。私は前を素通りし、地上へと出た。
野毛のメインストリートには、昭和テイスト漂う看板が、優しい光を放っていた。人出が思ったほど多くないのは月曜の夜だからだろうか。たなびくネオンの光彩に、記憶の扉が少し開いた。
……10年前、確かに私はここを歩いた。打ちのめされ、先のことなど何も見えぬまま、フラフラとした足取りで。そして、通りの喧噪に耐えられなくなった私は脇道へとそれ、静寂の中にポツンと開いていた居酒屋に入ったのだ。
とある角から覗いた路地の先に、その店は変わらぬ姿であった。
ゆっくり歩いていくと、小さな店構えの軒先には古びた赤提灯がかかり、同じく赤いのれんには、白文字で『居酒屋 げん』とある。すぐに入るのを躊躇し、しばらく店の前に佇んでいたが、さらに開いてきた記憶の扉に後を押されるように、私は店の引き戸に手をかけた。
こじんまりとしたつくりの店内には、大学生くらいの若いカップルがテーブル席に座っているだけで、他に客はいなかった。
カウンターの奥から「いらっしゃい」と声がかかった。割烹着姿の高齢女性が笑顔でこちらを見ている。その姿に、フィルムの靄が消えるように記憶の中の顔が蘇ってきた。あの時の女将に間違いない。
カウンターの端に腰を下ろし、カバンとケースを下に置いた。店を見渡すと、程よいあたたかみを感じる照明に照らされた壁一面には、メニューが書かれた紙が貼られ、本日のおすすめとして大きく「アナゴ天」とあった。
「どうしましょう」と女将が、カウンター越しにおしぼりを差し出してきた。私は受け取り、「あの……」と言って、思いとどまった。
「アナゴ天と……ホッピーを」
「はい、アナゴ天とホッピーね」と女将は繰り返した。
と、背後からカップルの話し声が聞こえてくる。
「……ホッピーって、聞いたことある」
「知ってるけど、俺も飲んだことないわ」
「頼んでみる?」
「ええよ」
すぐに関西弁とわかるイントネーションのやり取りの後、彼氏はカウンターに向かって「すみません、ホッピー2つ」と声をかけた。