あるいは、今となっては大抵誰もが彼のことを「詐欺師」だと思っている。そうなったのは、実際に、騙された人間が出たからだ。
Xは入社四年目の春にその商社を退職した。同じ時期にYも退職した。二人とも、表向きは体調不良を退職の理由にしていたが、事実は違う。
Yはその頃、私生活で問題を抱えていて悩んでいた。四児の母で、夫との離婚の調停中だった彼女は、これまで以上に時間と、何よりお金を必要としていた。
Yが私に電話してきたのは、彼女が退職して二か月後のことだ。
「うちで働かないかってXから話があって。それで彼、私生活のごたごたが落ち着くまで仕事は(Yの)自宅で出来る単純な入力作業で構わないし、給与も今までの1.5倍支払うって、そう言うから」と彼女は話した。どうやら、私の知らないうちに二人でこそこそとそういう話を進めていたようだった。「でも一か月目の給与支払いが遅れて、おかしいと思ってXに電話したら…。何度かけても繋がらない」
それを聞いて、私もXに連絡してみたが、やはり、繋がらなくなっていた。
そのYの電話から一週間もしないうちに、Xの件で、今度は会社に警察から電話がかかってきた。しかし、警察はXがまだその会社に来ていると思っていたらしく、いない、と答えると要件も言わずに電話を切った。
ある日、「あいつはもう捕まったかな、何か知っている?」と、同僚のZが私にXのことを聞いてきた。
「さあ、何も」と私は答えた。「でも、よく分からないな」
「何が?」
私はずっとそのことが奇妙で仕方なかった。XがYから盗んだものは、実際、Yが一、二か月の間に費やした入力作業の労働力とその時間。しかしそれでは彼が三年間支払い続けた私たちの食事代(よく仕事終わりに三人で飲みに行っていた)の採算も取れなかっただろう。つまり、この一件で、彼は何を得するだろう。彼は一体何がしたかったのか。
4
その会社に勤めて十三年目、私は念願だった部署に異動した。三十五歳になっていた。
それから二年後の三十八歳のときに彼がその部署に入ってきた。月島(つきしま)律(りつ)は、転職組の新入社員で、私より五歳若かった。毎月、成果を出した。謙虚で、根性があり、ルックスも良い。将来有望な人材。そういう評判が立っていた。
定時を過ぎて電気を消灯すると、まだ仕事を続けようとする社員のラップトップの明かりでオフィスは不気味に光った。大抵、いちばん最後まで光っていたのは月島のデスクだった。
その夜は、オフィスにはもう私と彼だけしか残っていなかった。
彼のデスクは普段から書類が山積みになっている。しかしその中央は、谷のように作業出来るスペースが確保してある。その夜、私が目に留めたとき、彼はそこに前のめりになってうなだれていた。休んでいるようだったが、起きていて、彼はただ目の前をぼんやりと見つめていた。よく見ると、彼の視線の先には、「ホッピー」のボトルが置かれていた。
「飲めばいいよ」
そう私が彼の背後から声をかけると、月島は振り返った。
「もう二人だけしかいないし、飲みたければ飲めばいいよ」と、私は繰り返した。「何かそれに割るものが必要?」
「いえ、大丈夫です」と、彼は笑って答えた。
「じっと見つめて飲みたそうだったからさ」
「考え事です」
思えば、そのホッピーのボトルは、彼が入社してから退職するまで、誰かからのインテリアのお土産のように、ずっと彼のデスクの上に置いてあった。
「少し話をしてもいいですか?」