きっと、ご注文はお決まりでしょうかと言っているのだろう。さっきから滑舌が悪くて、脳内でなんとか和訳しているが、これ以上言われると、そろそろ限界かもしれない。
「いや……まだです」
店に入って、まだ数分しか立っていないのに、決まるはずないだろうと言いたかったが、なんとか飲み込み、再び壁を一望する。
優柔不断な俺には酷な状況だった。そもそも夕飯さえも決められないのに、明日の専務との異動調査面談で、自分の明確な進路を言えるはずないじゃないか。
いけない。せっかく仕事のことを忘れて、しばしラーメンと酒に舌鼓を打とうと思ったのに、仕事につなげてしまう。しかし、焦れば焦る程、一体どれを頼もうか全く思い浮かばない。九月末で暑くもないのに、額から汗が零れ落ちる。
ふと目の前に、お盆が置かれる。そこにはいくつかの瓶、器に入った氷、そしてトックリが載っている。
見上げると、初老の男が俺をじっと見ている。
「ホッピーセットでごじゃいます」
「え、俺、頼んでないんですけど」
「その……申し訳ごじゃいましぇんが、あちらのお座敷に持って行ってくれしぇぬか」
耳を疑う。なぜ、俺が店の手伝いをしなければならないのか。只でさえ、夕食が決まらず苛立っているのに、いくら温厚な俺でも文句の一つでも言いたくなった。
「あの申し訳ないんですいけど……!」
と言いかけて、息を吸い込む。
初老の男が口を開けている。前歯が見事にない。
「拙者が入り申すと、難儀ゆえ、何卒、お願い申す」
初老の男が頭を下げる。頭には髷が揺ってある。一体どういうことだ。秋葉原のメイド喫茶ならぬ、ちょんまげ酒場?
「わ、わかりました。どこに持っていけば?」
初老の男の言動に負け、俺はお盆を持つ。
「あちらのお座敷へお願い申す」
ふと目を向けると、障子で閉められた個室に光が灯っている。小さな居酒屋の構造上、個室があること自体、不思議に思ったが、今はまず、このホッピーセットを届けることが先決だ。
俺はお盆に載せられたホッピーセットを持ち、個室へと歩きはじめる。
「お武家しゃま」
よくわからないが、自分が呼び止められたと思い、後ろを向く。
「お武家しゃまに、わが君の運命がかかっておりましゅる。何卒、お力をお貸し下さいましぇ」
初老の男の目から、涙がひたひたとこぼれる。一体なんなんだろうか。しょうがない。とりあえず、このホッピーセットを置いて戻ったら、何かサービスしてもらおう。
俺は障子を開けた。