「はい、今日もお疲れ様。明日も気を付けて回って下さい」
「ありがとうございます」
電話を切ろうとした所、専務が一言を付け加えた。
「そうそう。帰ってきたら、今後のことも話し合わないとね。帰ってきた後、時間取れる?」
「……あ、はい。大丈夫です」
電話を切り、そのまま立ちすくむ。
専務の一言で、これからベッドに仰向けで倒れ込もうとした気持が吹っ飛んでしまった。
俺はカーテンを開けて、窓の外を観る。なんの変哲もない住宅街が視界に飛び込んできた。
ビジネスホテルの窓を開けても、絶景が飛び込んでくるはずがないことは十分わかっていても、僅かな希望を持って毎回開けてしまう。今日も大外れだ。
トントントンと、ドアをノックする音がした。開けると、フロント係の女性が笑顔で立っている。年は俺のお袋と同じくらいか。
「お疲れの所、大変申し訳ございません。こちらが一階ロビーに落ちておりまして。お客様のものでないかと」
差し出されたものを観て、赤面する。間髪入れず奪い返したかったが、もちろん会釈をしてゆっくりと受け取った。
「子ども達がかわいいですねぇ! 子供服のパンフレットですか」
「あ、いえ! 保育園のパンフレットです」
「まぁ! 私、若い頃は保母をやってたんですよ! 園児募集のお仕事ですか」
「いえ、うちの保育園で保育士が足りなくって。保育の専門学校とか、短大とか大学を回って、学生さんが卒業して資格取ったら、うちの保育園で働いて下さいって営業してるんです」
「あらー大変なのねぇ。今、ニュースでも保育士が足りないって言ってるものねぇ」
従業員の会話から敬語が見当たらなくなる。ホテルの従業員の職業的枠組みを簡単に脱ぎ捨て、おばちゃんは欲望のままに質問し始めた。
「じゃあ、この近くの専門学校行った? あそこにも保育科あるものね」
「はい。明日の午前中に行こうかと」
「あれ⁉ この表紙の男性保育士ってもしかして、お客様?」
気づかれた。最悪だ。
「いやぁ……去年までは現場で保育士やってたんですけど、保育園の本部で人足りなくて……今は保育士集める広報部の営業やってまして……」
ああ、なんでこんなことをホテル側に説明しなきゃいけないんだろう。
きっと矢継早に質問されるに違いない。ああ、早くベッドに倒れ込みたい。
おばちゃんの大きな口から言葉が発せられる数秒早く、俺のスマホから着信音がなる。
「あ、すいません。会社から連絡が」
「失礼致しました。それでは、ごゆっくり。外食なさる場合は、当ホテルより歩いて十分ほどにある佐野ラーメンをお勧めしております」
おばちゃんは好奇心を噛みしめながら一礼し、ゆっくりとドアを閉めた。今日ばかりは、おばちゃんを従業員へと戻したダイレクトメールに感謝しなければならない。